「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(37)

平野清さんと海水浴の思い出

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

「御宿の海女」林唯一画▲「御宿の海女」林唯一画

東京・銀座のド真ん中、「和光」のビルから晴海通りを有楽町へ向かって何軒か先に「ゆふきや」という小さな画廊があった。

大通りに面していたので、通りがかりの人が大勢寄ってくれて、いつも賑やかな画廊だった。その画廊で私は平野清さんと会い、初対面で意気投合した。昭和50年頃のことである。平野さんはこの画廊で毎年同じ時期に展覧会を開いていた。

平野さんはいわゆるプロの画家ではなかった。めずらしい経歴の持ち主で、大正8年千葉県生まれ。昭和16年、東京高等工芸学校図案科を卒業し、大蔵省印刷局に入り紙幣の図案を描いてきた。要するにお札の原図を描いてきた人なのである。

昭和35年に退官後、「東京教育写真(株)」を創立。奥様とともに幼稚園の子供の写真を写すのを業としながら、好きな絵を描き続けていた。幼稚園と言っても、平野さん夫妻は学習院とか 雙葉学園などいわゆる名門と呼ばれる幼稚園の専属カメラマンとして、年中行事はもちろんのこと、平常の園児の生の姿をカメラにおさめ、展示して父兄に選んでもらって、結構良い収入を得ていたように聞いていた。美智子皇后さまから今の皇太子浩宮さまの写真などずいぶん買っていただいた話も当時耳にした。

親しくなってすぐ「思いがけなくレンブラントのエッチングの本物を買うことができましてネ。まさか日本で本物が買えたなんて全く夢のようで、今度ぜひ見に来てください」とお誘いをいただいた。何でも伊勢丹の美術部から入手したと聞いたが、いったいいくらくらいしたのだろうと興味を持ったが、そのレンブラントのエッチングは見る機会を逸してしまった。平野さん夫妻とは以来親しくなり、私自身も銀座で年に2回程グループ展をしていたので、お互いの展覧会を通じて親しさを深めていった。平野さんは眼光は鋭かったが、誰にでもやさしく温かく接していた。前述の通り、画廊「ゆふきや」はいつも大勢の人が入っていたが中には偉そうに一席ぶってゆくお客さんもいたりした。平野さんは嫌な顔ひとつしないで接していた。画廊に置いてある芳名簿でそんな人たちの名前を確かめ、そっと手帳に何やら認めていた。ある時その手帳を覗かせてくれたことがあったが、手帳には「嫌な奴」「偉そうに」とか細かくメモがしてあり、吹き出してしまったことがあった。

 

比類なき善意の人

平野さんのスケッチ▲平野さんのスケッチ

その平野さんから「千葉の安房勝山に大きな農家を別荘代わりに買ったから、夏には家族連れで遊びに来てください」と熱心に誘われた。そして、「無料(ただ)だと根本さんも来にくいだろうから、一家5人で3食つき。何泊しても宿泊代は、東京から安房勝山までの片道電車賃と同額」という話になった。つまり無料同然ということだった。私の3人の子供たちもまだ幼く、夏休みには海水浴へ連れて行くようになり、内房の保田とか九十九里に出かけたりしたが、平野さんの御好意に甘えることになり、家族5人して安房勝山の平野さん所有の家に、3年程続けてお世話になった。農家はかなり大きな家だったそうだが、そのままの姿で改築すると膨大な費用がかかるので、仕方なくナショナル住宅で今風の家を新築した。その新しい家でゆっくり夏の数日を楽しませていただいた。家の傍らに巨大な楠(くすのき)が2本あり、平野さんは、その木に惚れ込んで、その家を買ったんだと話していた。大きな馬小屋があり、その建物はそのままにして地面だけ真っ赤なコンクリートで塗り固め、将来アトリエにするんだと言っていた。それにしても平野さんは生活は質素だったが、並外れたスケールの持主だった。ある年ドライブに誘われ、房総半島の先端に近いところだったが、大きな山の一つを買ってしまったと言い、双眼鏡片手に「あの峰からこちらまで全部買ったから、キャンプでも何でも自由に使ってください」と言われ度肝を抜かされたことがあった。

だいたい3泊から4泊したが、平野さんの奥さんが夕食の支度までしてくれて帰京してしまうし、昼は戻ってきて海岸まで車で送ってくれたり、夕刻には海岸まで迎えに来てくれて―という至れり尽くせりの夏休みを過ごさせていただいた。

平野さんは井の頭線の沿線に住んでいたが、毎朝4時に起き、山手線を2回まわって、そろそろ乗客が多くなる頃、8時前に帰宅して朝食という生活を毎日続けていた。他の乗客に気づかれぬように、小さなスケッチブックに、向かい側に座った人を描いていた。几帳面な平野さんは、スケッチブックにナンバーを入れて1万人描くのを目標にしていたが、何と初期の目標は思いのほか早く達成し、2万人目のシリーズに入ったと話していた。

そのほか昼は都内の研究所へ週に5回は通ってヌードクロッキーに励んでもいた。「今私に欲しいものは時間です。1日が50時間あれば良いと思っています」と話し「カッパドキアの洞穴に住んで耕しながら祈りながら壁画を描いた中世の修道士たちのように、何も求めることなく、これからの一生も、描き続けたいと思います|」。平野さんとの親交はかなり長く続いたが、夏が来ると比類なき善意の人平野さん夫妻との交流がなつかしく思い出される。

御宿での海水浴

電車の中で 平野さんのスケッチ▲電車の中で 平野さんのスケッチ

ところで夏休みの海水浴はその後家内の妹一家と同行して「月の沙漠」で有名な御宿海岸へ移ることになった。

御宿で世話になった民宿の奥さんは、もと海女をしていたそうで、とても良くしてくれたので、2年程お世話になった。

その頃から子供たちもだんだん親離れがしてきて、一家で海水浴なんて言うのもあまり喜ばなくなってきた。

今月は平野さんの思い出に始まり、幼い頃の子供たちと共に過ごした海水浴の思い出がなつかしく、つい夏休みの話に移ってしまったが、「親」としてはあの頃が一番楽しかったように思えてくる。

私自身も若かったし、何よりも49歳で夭逝した妻の明るい笑顔もそこにはあった。

御宿での夏の一日、私は全くのカナヅチなので大きなゴムボートに乗ってのんびりゆらゆら漂っていた。

気が付くと流されて岸から遠く離れてしまい、内心大いにあわてたが、一人懸命に泳いでこちらを目指して近づいてくる姿があった。妻だった。必死でボートまで泳ぎ着いた妻は息も絶え絶えに、それでもほっとしてボートを確保してくれた。折よく少し離れたところに泳いでいた3人の若者も寄ってきて、岸まで連れ帰ってくれた。いやーあの時は本当に恥ずかしかった。照れくささを私は笑いでごまかしていたが、懸命に私のゴムボートへ向かって泳いできた妻の姿が、これも夏が来るたびに思い出される。

3人の子供も各々結婚し、人の親になり、小さいながら家を構えている。私はといえば、気ままな一人暮らし―といっても若い頃と違って、もう何が起こっても不思議ではない年齢になってしまった。

子供たちも気にしてかよく連絡してくれる。息子2人はわりに近くに住んでいるが、娘は埼玉の入間市とちょっと離れてしまっている。「もしもし生きてる?」。娘からの電話である。「あー生きてるよ」|と私。用件が話し終わり、「暑くなったから身体気を付けてネー」と娘。親馬鹿な私はその一言でちょっとホロリ。

しかしその言葉に続いてさらに一言。「こんな暑い時に一人で倒れたら、すぐ腐るか、くさやの干物になるから気を付けてネー」きつーい一言。やっぱり娘はコワイ、コワイ。

 

今月もかつてお世話になった大先輩の林唯一先生の『郷土の風俗』の中から「御宿の海女」の絵を掲載させていただいた。快く許可していただいた御令息の林利根様に心から感謝申し上げて―。

 

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