夢見る頃を過ぎても(38)
ボールペン一本の人生 酒井不二雄
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
あれはたしか昭和42年の秋頃だったかと思う。というのは、前年の7月10日から始まった「ウルトラマン」が、ひとまずこの年の4月に終わり、「キャプテン・ウルトラ」(9月24日まで)がその後を引き継ぎ、10月から「ウルトラセブン」が始まった頃で、私は版権窓口の日本音楽出版株式会社(通称日音)へ日参したり、業者の間を打ち合わせで廻ったりで、かなり多忙な毎日を送っていた。ちなみに「日音」はTBSの中にあり、TBS関係の音楽の著作権をすべて管理している会社だった。その日、蔵前筋の玩具会社数社を廻ったあと、ショウワノートへ寄り、近くの日本橋へまわり「丸善」の書籍売り場で私はその本とめぐり会った。
『東京スケッチ散歩』という本で、やや大判の変形で定価は(当時で)2500円。
ケースの他、さらにその上に段ボールのケースに入った結構持ち重りのする本だった。何よりも著者署名番号入りの333部限定本という数の少なさに驚きもし、帰宅してゆっくり楽しんで見ようと思い、いそいそと帰宅した。作者の酒井不二雄という人を私は知らなかった。
ボールペン一本で東京の街を克明にスケッチしたこの本は十分に楽しませていただいたし、資料としても大切に書架に並べた。
ここでちょっと話は逸れるが、前述の通り「日音」では「ウルトラマン」の大ヒットで、ざくざくという程大きな入金が続いていた。
「日音」ではその波を利用してTVキャラクターではないオリジナルのキャラクターを作成して、業者に働きかけることになった。
「花の精ウキウキ」「光の精ポンピー」「水の精リップル」|たしかそんな名前の3人の可愛い妖精が出来あがった。原作は、かっては中原淳一と少女物の世界で覇を競い合った、私も憧れていた松本かつぢ先生で、松本先生は世田谷の二子玉川に近い所にお住まいだった。当時私は(これも再三このシリーズに書いたが)小出信宏社という小さな紙製玩具の会社(ぬりえ、かるた、ゲーム等のメーカー)に招かれて、企画室長という職についていた。小出信宏社は京成高砂駅の近くにあり、すぐ後に日本橋人形町に移ったが、今のように交通も伸びていなかったので、世田谷まではかなりの時間を要した。渋谷駅前から「成城学園行」のバスに揺られて松本先生宅へ通った。松本先生は少女漫画の「くるみちゃん」でも根強い人気があり、当時日本橋三越でも、くるみちゃんコーナーがあった程だった。
松本先生は、私が帰る時、よく渋谷まで送ってくれたりして、食事を御馳走になった事も多かった。克(かつ)プロダクションという会社を作り、前述のキャラクターを売り出したが、窓口がTBSの日音なので、業者はテレビ化されるだろうと思っている人が多く、「これはテレビにならないキャラクターです」という説明を私が問い合わせに答えることになり、いつしか克プロダクションのPRのお手伝いもすることになった。
松本先生は「遠いから不便だろう」ということで、表参道にマンションを借りてくれて、好きに使うようにと鍵を預けられた。克プロダクションには村田公子さんというユニークな女性がいたが、たまたま住む所がなかったので、松本先生が「事務所として借りたんだが、夜は空いているし、もったいないから村田くん、あのマンションに住んだらいいよ」と簡単に村田さんを住まわせてしまった。
昼近くにマンションの鍵を開けて声をかけると、村田さんがパジャマ姿のままあわてて出てきて、「今コーヒーをいれます」としどろもどろにコーヒーをいれてくれたが、「これはまずいことになった。知らない人が入ってきたら、まさに夜明けのコーヒーの図で誤解されそうだ」と私は空恐ろしくなって、他に理由を作ってマンションの鍵をすぐ返却してしまった。松本先生は大層残念がったが仕方ないことだった。
描くのを捨て描く決心をする
長々と松本先生との交流を書いてしまったが、ここからが本題である。
一緒に中華料理店で食事をしている時、「面白い漫画を描く人が居てネ。注目していたんだが、ぱったり誌面から消えて、気にかけていたら、今度その酒井不二雄さんが凄い本を出してネ」という話になった。
「あれ、どこかで聞いたような名だな」と思って、「もしかしたらボールペンで克明に街をスケッチした人ですか?」と私が訊くと、今度は松本先生がびっくり。「君あの本を知っているの? いや私も驚いてネ。励ましのハガキを出しておいたよ」ということで、その場は盛り上がった。
その事があり、私も酒井不二雄という名が急に気になっていたが、それから程なくしてその酒井先生とは私が敬愛していた森熊猛先生と、銀座でばったりお会いした際、同行していたのが酒井先生だった。縁というのは不思議なもので、森熊先生とともに酒井先生とも十年来の知己のように親しい間柄になった。酒井先生は、大の酒好きで、「根本さんとの出会いを祝して一杯やろう」と早速誘われたが、私が下戸なので謝ると、「いいよ、いいよ、それなら汁粉屋で乾杯しよう」ということで、大笑いとなった。森熊先生も酒は一滴も口にしないので、私とはいつも喫茶店だったが、酒井先生も加わって、それからはコーヒーで三人親しい間柄になった。
「松本さんから過分なハガキをもらってネ。宝物にしていますよ」と嬉しそうにしていた。
酒井先生は上野駅前の生まれで、かなり豊かな商家に生まれたらしく、当時としては珍しく幼稚園へも行っているし、若い頃の写真ではライカを持って写っている写真もあった。
紹介してくれた森熊先生は本シリーズの始めの頃取り上げさせていただいたこともあり、編集部の話では、読者からの反響がいちばん多かったそうで、重複するので、今回は割愛させていただくことにした。
酒井先生は無類の愛書家で、冒頭の『東京スケッチ散歩』から『東京スケッチ歳時記』『東京おもかげ画帖』『酒井不二雄の仕事』『東京やすらぎ画譜』『ボールペンすけっち案内』…等々一冊一冊愛書家の気持ちが惻惻(そくそく)と伝わってくる本を出版した。もちろんすべてボールペン一本で全部現場で描いたというのだから、本当に驚かされる。酒井先生は現場でのスケッチ主義で、そのスケッチの制作メモが毎日克明に記されているのも面白かった。
「私は絵を描くことを捨てて、絵を描く決心をした。マスコミの仕事を捨てて、自由勝手に何の束縛も受けない仕事をしようと、決心したという意味である」
酒井先生はそう話している。
東京は変わった。変わりすぎた。次のオリンピックまでに、また大きく様変わりすることだろう。
ボールペン一本で写し取った東京の風景は、大きな郷愁となって見る人の胸に迫ってくる。「下町は私の友であり、東京は私の師である。下町は私の母であり、東京は私の父である」とも書いている。
酒井先生は足が弱って、歩くことが困難になったと聞いた頃、私は所用で赤羽へ出かけたことがあった。用事が早く済んだので、酒井先生に電話をしてみた。酒井先生は弾んだ声で電話へ出て、「今どこに居るの? タクシーで行くから待ってて!」と慌ただしく電話を切った。赤羽駅南口で私たちは会い、喫茶店で夢中で話し合った。しばらくぶりだったので、「嬉しいなァ」「嬉しいなァ」という言葉をその日何回聞いたことだろう。
2時頃に会って、外はもうとっぷりと暮れていた。タクシーにお乗せしたが、なかなか握手した手を離さず、いつもの温かい笑顔で去っていったのが、酒井先生との最後になった。
私は多くの先輩に恵まれて、本当に幸せだったと思う。酒井不二雄先生は平成18年7月(87歳)、松本かつぢ先生は昭和61年5月(82歳)、森熊猛先生は平成16年9月(95歳)で各々彼岸に渡った。今月はお盆の月でもある。あの人この人と思い出すと、狂おしい程、懐かしくもあり、昔が恋しくもなる。
さらに今年はあの終戦の日から、早や69年目の記念日を迎える。
許されて今宵ともせる窓の燈(ひ)に法師の蝉のなくぞかなしき 吉野秀雄
猛暑の中で、一人物思いに沈んでいる。