「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

松戸よみうりロゴの画像

>>>私の昭和史バックナンバーはこちら

夢見る頃を過ぎても(39)

厳しい時代を支えたラジオと映画

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

昭和20年代の高級ラジオの写真▲昭和20年代の高級ラジオ

先日、友人の車で久々に旧葛飾橋を渡った。戦時下から戦後にかけて、この東京と千葉を結ぶ橋には、常時警察官や私服の刑事が待機していて、米を筆頭に統制食料品は、すべてその場で没収されてしまっていた。父も実家が柏の農家だったので、南千住の家から自転車で通い分けてもらった食料を何回か取り上げられた経験を持ち、買い出しでやっと手に入れた食料を奪われて「子供に、子供にー」と言って泣きすがる母親から非情に取り上げる警察官とのやりとりを見て、自分も同じ立場の身を忘れて、「可哀そうで見ていられなかった」とよく話していた。

戦争が終わって、空襲の恐怖からは解放されたものの、食料事情は一層ひどくなったように少年だった私にも感じられた。

当時は車などは、ろくに走って居らず、自転車かリヤ・カーか、大半は徒歩だったので、いろいろ知恵をしぼって食料を隠し持っていてもすぐにバレて没収されてしまった。本当に苦しい時代だった。ちなみに、今の国道6号は昭和30年代に開通。現在の新葛飾橋は昭和39年の完成というから、前回の「東京オリンピック」と同年ということになる。

そんな中で楽しみと言えば、ラジオの放送と、いち早く上映を開始した映画。そして、仙花紙と呼ばれた粗悪な紙に印刷された多くのカストリ雑誌の群れであった。

電力不足で夕刻になると電圧が下がり、部屋の明かりも暗くなり、ラジオも聴こえなくなってしまう。私の家でも小型のトランスをやっと入手して、電力をアップさせて辛うじて聴いていた。ラジオから流れる流行歌の数々にどれだけ慰められたか測り知れない。

終戦翌年の21年には沢山のヒット曲が生まれ、「リンゴの歌」をはじめ、「かえり船」(田端義夫)、「悲しき竹笛」(近江敏郎・奈良光枝)、「麗人の唄」(霧島昇)、「青春のパラダイス」「東京の花売娘」「ニュー・トーキョー・ソング」(岡晴夫)、「別れても」(二葉あき子)、「愛のスイング」(池真理子)、「片割れ月」(菅原都々子)、「青い花」(高峰三枝子)、「港に灯りの点(とも)る頃」(柴田つる子)、「長崎シャンソン」(樋口静夫)、その他「可愛いスイートピー」「黒いパイプ」「そよかぜ」「緋房の籠」「夜霧の都」「旅役者の唄」…。21年の分だけでもまだまだ沢山あり、22年にいたっては現在も歌い継がれているヒット曲のオンパレードで、私にとっても昭和20年代の歌謡曲や、戦前からのなつメロのテープが千本近くあるので、昔を思い出しては愛聴している。

 

今や幻の「股旅千一夜」

昭和11年公開「股旅千一夜」沢村貞子の入浴シーンの写真▲昭和11年公開「股旅千一夜」沢村貞子の入浴シーン

一方、映画は柏に2館、松戸に2館(昭和34年に輝竜会館が開館して3館)、亀有にも日立映劇というのがあったり、そして極めつけは浅草六区と映画びたりの日々を送った。戦後初めて映画を観たのはたしか昭和21年頃のことで、柏には軍需工場として大きな日立製作所があった(現在の柏レイソルの母体である)。当時はたくさんの社宅はもとより銭湯も2軒。社員の娯楽用として映画館まであった。学校からその映画館へ行くことになり、生徒たちはぞろぞろ列をなして担任の先生に引率されてその日立の映画館へ連れてゆかれた。

映画館はあったが、フィルムが入手不足で、渡辺はま子がチャイナドレス姿で大きなファン(扇)を手に「支那の夜」を歌っていた場面が、はっきり記憶に残っている。

ぞろぞろと書いたが、当時柏には保健所も税務署もなくて、健康診断のレントゲン写真を撮るために、それこそ大勢の生徒が、松戸の保健所まで(切符が入手できなかったので)歩いて出向いた。

映画の話に戻るが、有楽座や日比谷映劇のようなロードショウの映画館は別にして、松戸や柏の映画館は2本立て。時には3本立てといった上映が多かった。ところが前述の通り、フィルムが足りなかったらしく、今から思うと妙な組み合わせが多く、その上、柏の2館(柏館、富士館)の場合、各々週に2回フィルムが変わったので、2本立てとすると週に8本のフィルムを観ることができた。邦画も洋画も新旧ほとんどごったまぜで、邦画はほんの僅かきり記憶にないが、思いもかけない洋画も併映されることがあり、例えば、ゲイリー・クーパーの「モロッコ」(昭5)、「平原児」(昭11)、「西部の男」(昭15)、「真昼の決闘」(昭27)、「ヴェラクルス」(昭29)、エロル・フリン「海賊ブラッド」(昭10)、「シーホーク」(昭15)、タイロンパワー「地獄への道」(昭14)、「若草物語」(昭24)…等々。「十字軍」(昭10)のロレッタ・ヤングとか有名な「哀愁」(昭15)のヴィヴィアン・リーには全く心を奪われた。このように映画は邦画、洋画ごった煮で上映されていたのである。

松戸の西口通りをちょっと左へ入った映画館(館名は失念)では昭和25年、戦没学生の手記をもとに関川秀雄監督の作品「きけわだつみの声」が上映された。早速出かけたが、併映が何と上原謙、佐分利信をはじめとする松竹オールスター総出演の昭和15年の松竹のお盆映画「愛の暴風」だった。これは大ショックだった。柏へ疎開する前、東京で観た映画で、主題歌「相呼ぶ歌」(霧島昇・菊池章子)、同じく桑野通子が劇中で歌う「無情の花」(歌声は二葉あき子)は疎開中ひそかに愛唱していた2曲で、それよりも何よりも(早熟だったのか)主演の北見禮子は憧れのスターだった。それがまた松戸の映画館で再会することができて嬉しかった。

大正4年の生まれというから、存命なら99歳のはずである。林長二郎(長谷川一夫)や高田浩吉、阪東好太郎等と組んで多くの映画を残したスターだった。

偶然鎌倉の医師の奥様になっている本間雅晴中将(戦後山下泰文大将とともに戦犯としてマニラで処刑された)の長女尚子(ひさこ)さんに柏駅西口前で親友のお姉さんに紹介されたことがあった。

名将、知将として名高い本間中将のことは本シリーズでも詳述しているので、ここでは省略させていただくが、その尚子さんの隣家が北見禮子さんの家だったそうで、「ぜひお遊びに|」とお誘いをいただいたが、その機会は逸してしまった。北見禮子の一粒種が林与一さんである。

 

小松崎茂が描いた「股旅千一夜」のスケッチの一部▲小松崎茂が描いた「股旅千一夜」のスケッチの一部

近頃は昔の映画もテレビで流されたり、フィルム・ライブラリー等で上映されているが、どうしても観ることのできないフィルムもたくさんある。私にとってその一つに昭和11年日活映画で、前進座総出演、稲垣浩監督の「股旅千一夜」がある。というのは、師の小松崎茂先生が若き日勉強のため映画館の暗がりでスクリーンをスケッチしたスケッチブックが私の手許に一冊だけ残されているからである。

この一連の貴重なスケッチは、小松崎先生の師の小林秀恒先生宅にあって、戦災を免れ、大事に保存していたが、平成7年、失火による小松崎家全焼の際、惜しくも全部焼失してしまった。ところが奇跡的に焼失を免れた一冊だけが私の手許に残されていたのである。

この映画のフィルムは所在が不明になっているが、沢村貞子さんの入浴シーンがあったようで、きびしい検閲官との知恵くらべでカットを逃れた経緯が、稲垣浩著『ひげとちょんまげ』(中公文庫)に書かれていて面白く読んだ。沢村貞子さんが「数ある出演映画の中でも特に印象に残っている」と書いているので、コピーして送ろうと思ったが、その沢村さんもすでに故人になってしまっている。

 

37年まで続いた「尋ね人」

最後に冒頭のラジオの話に戻るが、「尋ね人」の時間というのがあった。昭和21年7月1日から始まり、早朝、昼、夜11時前の1日3回放送だった。戦禍によって家を失い、肉親と離れ離れになった人々、あるいは外地からの引揚者などが、身寄りや知人を探し求める告知板であった。「○○に居た○○さん、○○さんが探しています」といった放送が今でも私の耳に残っている。この放送は昭和29年からは1日1回の放送になったが、何と昭和37年3月31日まで続けられたという。

私もそんなに長く続いていたのは知らなかったが、今さらながら戦争の傷あとと空しさに心が重くなる。今年は思いがけぬ天災が続き、地球はどうかしてしまったかと思う夏であった。被災者の皆様やお亡くなりになった方達に心からの御冥福をお祈り申し上げて―。今月はこの辺で…。

 

▲ このページのTOPへ ▲