夢見る頃を過ぎても(41)
若き日の夢を運んだ新幹線も50周年
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
東海道新幹線が開通して今年でちょうど50周年を迎えた。冒頭から私事を書いて恐縮だが、新幹線のテープカットは10月1日だったが、私はこの年の11月5日に結婚式を挙げた。妻がもし元気でいてくれたら、私たち夫婦は今年金婚式を迎えていたはずである。
その妻は、銀婚式の1年前、昭和63年、49歳の若さで癌で早世してしまった。
妻が逝ってからでも26年の歳月が流れ去った訳で、あっと言う間のことのようにも思えて片羽鳥になってからの主夫生活を含め、様々の出来事が頭を過(よ)ぎる。
結婚式場が新宿の河田町(今は建て直されて存在しない)だったので、式の最終打ち合わせを済ませた帰途、新宿駅の近くから、国立競技場のあたり、オリンピック閉会式(10月24日)のぽんぽんあがる花火を眺めた。
新婚旅行は開通したばかりの新幹線で熱海まで行き、三泊四日で伊豆を廻る旅だった。
当時はハネムーンで海外なんて話はほとんど聞かなかった。ちなみに翌40年暮に、私は20日間近くディズニープロ、キングフィチャーズ・シンジケート(ポパイの権利元)、ハンナ・バーバラプロ(ほのぼの家族)とアニメ制作会社の視察でアメリカを廻ったが、当時日航もアメリカ西海岸までしか運行していなかったし、ジャンボ機(ボーイング747型)が登場するのは昭和45年春のことで、ちなみにこれは大阪で開かれた日本万国博と時を同じくしている。
1ドル360円の時代で、持ち出しの「円」にも厳しい制限があり、日本もまだまだ発展途上だったのである。
新幹線では、もうひとつ忘れられない思い出がある。
当時私は集英社発行の幼児雑誌『こばと』(後に『こばと幼稚園』と改題)に毎月絵を描かせてもらっていた。『こばと』は他の幼児雑誌にないフレッシュな雑誌で、あこがれの『こばと』に毎号描けるということは、嬉しくてたまらなかった。
毎月雑誌に付く第一付録は、ほとんど私が手がけていた。オリンピックが近づいた頃、突然椎原編集長が来宅した。不意の来訪で驚いたが、編集長の話では、「実は急に決まったことで、今度『こばと幼稚園』は小学館の『幼稚園』と合併することになりました。ついては今まで毎月色々お世話になった根本さんに最終号は好きな頁に好きなだけ描いてもらおうという話が編集部で決まったので―」ということを伝えるための来宅だった。
事実上の廃刊の話で、私には大きなショックで、限りなく淋しい話だった。
好きなだけ―と言ったって締め切りまではそう期日もない。結局話し合って、一番目立つ折り込みの巻頭口絵を引き受けることになった。
テーマはオリンピックで、来日する世界中のお友だちと新幹線車中での楽しい情景を―ということになったが、ここで困った事が起こった。新幹線の外観写真はどうにか入手できたが、この時点で食堂車がつくかどうかということが決まっていなかった。結局編集部では、「いくら速いといっても食堂車くらいはつくだろう」ということで、衆議一決。「しんかんせんのしょくどうしゃ」という題の口絵を描きあげた。資料も何もないので、他の特急の食堂車を参考にして描いた。雑誌が出た頃、食堂車はつかないことが決まり、「ビュッフェ」という当時聞きなれない言葉と巡りあった。大失敗だったが、今となっては、それもなつかしい思い出になっている。
式が終わって、私たち夫婦は、式場から東京駅に直行した。師の小松崎茂先生夫妻や、私のメインの仕事先であった小出信宏社社長夫妻、友人たちや叔父たちまで見送りに来てくれたが、皆の目的は私たちの見送りと、新幹線を真近に見る楽しみと半々だったように感じられた。あの日から50年もの歳月が過ぎているのが嘘のようにさえ思われる。
秋の夜長、一人で思いを巡らせていると、「あー私にもそんな若い日があったんだ…」と次から次へと様々な思い出が頭の中を走馬灯のようにまわり始める。
果たせなかった許嫁との恋
これは初めて筆にすることだが、実は私には、妻と識り合うずっと前から結婚を誓い合った女性がいた。
特別なある事情から、私がまだ高校生の頃、知人から「親類のO子ちゃんを将来ぜひ嫁さんにもらってくれないか」という話を持ち込まれた。その話はもちろん先方にも伝わり、私の周囲でも取り沙汰されるようになり、一度も逢ったこともないのに、婚約者同士みたいな存在になってしまった。
私が20歳を過ぎた頃、私と彼女は初めて顔を合わせた。二人ともすでに「噂」という下敷があったし、とんとんと話がはずみ、一目ぼれというか、たちまち相思相愛ということになってしまった。その時点では、まだ若過ぎたので、ひそかに文通をするようになった。
私も彼女も有頂天だった。
彼女は箱入りの一人娘だったので、先方の両親が手離すのを渋っているのは、私も十分理解もし、誠心誠意気持ちを伝えたが、私も疲れ果てて「白紙に戻しましょう」と告げると、彼女の母親が飛んできて、「O子がかわいそう。何とか…」とあやまる。再び婚約に向けて話が具体的に進み出すと、「来春まで待ってくれ」と言いながら他にも無理難題。その繰り返しで、私達二人は振り回されっぱなしだった。
彼女は二度も家出してきたが、要するに、周囲から勧められても、駆け落ちすらできなかった私が意気地なしだった訳で、あげくの果て彼女は床についてしまうし、私も時として食事が喉を通らなくなるほど悩み、何とその関係は8年近い歳月に及んだ。
直接逢えたのは十数回のみで、ただ文通のみで二人とも悶々とした日を送った。
私も28歳になってしまい、結局最後は結納の日取りまで決まったところで、私にはどうしても承服できない話が起こり、精根尽き果て、彼女との結婚をあきらめた。
まるでメロドラマみたいだが、先方へ出かけた帰り、送ってくれた駅のホームで、一度手を取り合っただけ。「つらいわ」と言って涙を流していた彼女の顔が今も脳裏に焼き付いている。思えば超プラトニックの長い長い恋だった。自分自身の気持ちに背いての婚約解消は、はかない思い出として心に残った。
小さめの段ボール箱にぎっしり。彼女からの手紙が、女々しくも今も手許に残っている。
妻とは見合い結婚だった。妻はその事も承知していたが、「馬鹿みたい」と一笑に付されてしまった。
両親と私の下に弟が3人。経済的にも不安定な私の許へ、時計のセイコー社で高給取りだった妻は、専業主婦を条件の私の希望であっさり職を離れ飛び込んできてくれた。
亡くなった人はとかく美化されて思い出されるが、それを割り引いても本当に良い女房だった。生前から私は陰で色々尽くしてくれる妻に手を合わせる思いで接していた。
妻が逝ってしばらくして、私の身を案じて前述の彼女が夫にかくれてはるばる訪ねてきてくれた。
私は仕事と主夫生活に追われていたので、慌ててどんな会話をしたか全く覚えていない。
秋という季節、思いがけなく切ない思い出まで引き出してしまう。そういえば、テレビが普及するまで、秋の夜長は沈思をもたらし、手仕事や勉強に好適の環境であった。
スタンドの灯をともし机に向かうと、言い知れぬ豊饒(ほうじょう)感に満たされた。
外へ放たれていた自分を取り戻す喜び。見つめ直す内面に、果てしなく広がる未知の世界を感じるおののき。文明の進歩が、自動の能力を他動の懈怠(けたい)とかえてゆくのに慣れて、夜長の一刻の夢幻性を失ってしまったのは惜しいことだと思っている。
あみぼう あみぼう うごきます
母です 姉です ショールです
―秋のおわりの 夜ふけです
11月13日はサトウハチロー忌。ふと今思い出した。