「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(43)

80を前に広がる人の輪。今年も感謝の年に

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

劇団にんげん座 2014年公演「六区の空の下に」のパンフレットの写真▲劇団にんげん座 2014年公演「六区の空の下に」のパンフレット

明けましておめでとうございます―と新年のご挨拶を書いて、ふと筆がとまった。

本紙の発行は毎月第4日曜日なので、この原稿が新聞に載る頃はもう2月に近い。その頃には流石に正月気分も消えて、平常の暮らしに戻っているはずで、歳時記風な部分はちょっとちぐはぐな感じになるのは否めない。

それにしても新潟、青森、北海道各地の豪雪に対する地元の人々のご苦労は想像を超えるものがあると思う。アメリカの方からも記録的な豪雪のニュースが届いている。

今年の記録的な降雪量は例外と思いたいが、かって太平洋側は表日本、日本海側は裏日本と呼ばれていた。現在この言葉はテレビ、ラジオでも禁句になって使われなくなっている。広辞苑では「本州の、日本海に臨む一帯の地。冬季降雪が多い。明治以後、日本の近代化の中で先進的な表日本に対して用いられ始めた語」と記してあるが、これらの名称は歴史的な呼称ではなく、地理的な呼称として明治以降に使用されたものらしく、明治39年出版の山崎直方、佐藤伝蔵の『大日本地誌』には裏日本の名称が記載されているが、同じ頃出版された吉田東伍の『大日本地名辞書』には見当たらないという。

江戸時代以前は、波も荒く、流れも離岸流の太平洋側より、漂流しても岸に流れ着く可能性の大きい向岸流の日本海の方が航路も安全で、海運も大いに栄えた。

その上、日本海側は、大陸の文化圏にも直面しているし、文化的には太平洋側よりはるかに開けていたのは周知の事実である。

その関係が逆転したのは、政治、経済が進んで、雪害のない陸路が人々の生活に大きな変化を持ち始めてからで、近代になると裏日本というイメージからは、暗い雪空、経済的停滞、都市化・工業化の後進性、人口の過疎化…等すっかり印象を落としてしまった。

昭和30年代に裏日本という名称に対する批判が起こったのは、テレビの普及でこの言葉が人々の耳目に触れはじめたことと、この頃から雪国の人達に雪害を克服しようという意識がはっきりしだした事によるという。

現在は新幹線と高速道路により、生活物資の流通も円滑になり、冬はスキー客で賑わい、裏日本の印象もかなり変わってきている。東日本大震災という大きなダメージがあったが、総じて太平洋側は環境破壊が進み、一方、日本海側は自然環境が多く温存されてもいる。

大雪の苦労に心を痛めながらも、「雪国」の情趣に強く心惹かれるのは、雪の下なる囲炉裏のぬくもりの中に、日頃忘れている日本人としての郷愁と憧憬があるように思えてならない。

 

「帰ってきたウルトラマン」スーツアクターきくち英一さん(左)と「ウルトラマン」スーツアクター古谷敏さんの写真▲「帰ってきたウルトラマン」スーツアクターきくち英一さん(左)と「ウルトラマン」スーツアクター古谷敏さん

暮にも様々な集まり

ところでこの暮は、忘年会もいろいろなグループごとにあり、他の集まりも入れると全部で10を超していた。新宿御苑近くの中華料理店で開かれたかっての立教大学演劇部のOB会(10人程の会だったが)にも招かれて出席した。私は大学への進学はせずに、画の道へ進み、高校在学中から師の小松崎茂先生宅に入りびたりとなり、卒業と同時に正式に弟子入りし、住込みの書生として過ごした。

親友の海老原三夫君が、立教へ進んで演劇関係に夢中になっていた頃、私はオブザーバーとして「海抜3200メートル」「なよたけ」「雪女」「恋愛の技術」(キノトール作)…等々多くの学生演劇の上演作品のポスター、チラシ、切符のデザインまで手がけていた。

今回の集いでもお互いによく名前は知っていながら「初めまして…」の関係が多かった。

 

左から筆者、グレースさん、古谷さんの写真▲左から筆者、グレースさん、古谷さん

私の友海老原君は初期の劇団四季に加わっていて、NHKの「事件記者」に出演したり、テレビのアテレコ等で活躍し始めた矢先、昭和37年の国鉄三河島事故に巻き込まれて急逝してしまった。当時の演劇部諸兄の多くはテレビ、ラジオをはじめ演劇関係に進んだ人も多かった。例えば文化放送のアナウンサーとして活躍した佐藤也寸志さんも車いす生活になり今は地方へ移ってしまったというし、文学座の演出部で活躍した吉兼保(通称キープ)さんも彼岸の人になっている。映画「少年期」でデビューし、「伊豆の踊り子」では美空ひばりの相手役だった美青年石浜朗さんもこの日は姿を見せなかった。

大映の女優として活躍したお仲間の弓恵子さんも欠席。熱心に私を誘って下さった斎藤伊和男さんも最近バイク事故に遭い、「根本くん、皆みーんな居なくなっちゃったよオ。淋しいなあ…」と言いながら杖をついて帰って行った。夫妻での出席だったが、このご夫婦には昔から大層お世話になった。ちなみに奥さんの美代子さんは、銀座の有名な天ぷら屋「天一」の娘さんである。

浅草雷5656会館で上演された劇団にんげん座の「六区の空の下に」に元「ウルトラマン」(スーツアクター)の古谷敏さんが出演することになり、仲間と誘い合わせて出かけた。作/演出を手がけた飯田一雄さんとは、浅草での私の講演会で知己となり、しばらく前ご一緒に食事をし、戦後の浅草の話に花を咲かせた。飯田さんは軽演劇作家として知られる淀橋太郎さんのお弟子さんと聞いている。

古谷さんは12月13日には、虎の門の発明会館ホールで「ウルトラワンマンショー」という会も開き、昨年は大奮闘の年末だった。

 

古谷さん(左)と「ウルトラセブン」アンヌ隊員役のひし美ゆり子さんの写真▲古谷さん(左)と「ウルトラセブン」アンヌ隊員役のひし美ゆり子さん

一区切りついた所で暮だから集まろうということになり、いつものグループ仲間に声をかけ古谷さんを囲んで賑やかな会になった。両方の会に共演したジャズシンガーのグレース美香さんも駆けつけてくれた。友人達に言われるまでもなく、80歳を目前にしているのに、どんどん人の輪が広がっていくのは、やっぱり有難いことと感謝しなくてはいけないと思うのだが、残念ながら体力がついて行けなくなっている。先月号でお知らせしたように、この連載が単行本化されることになり、今何となく落ち着かない毎日を送っている。これから校正その他で本格的な忙しい毎日になると思うが、新しい年を迎えても、すでに色々なお誘いが舞い込んできている。今年は特に師の小松崎茂先生の生誕百年にあたるので、出身地の荒川区でも催しをしてくれるそうで、他にも展覧会の話がいくつか決まっている。

早いもので小松崎先生が逝って今年はもう14年目になる。阪神大震災から20年。さらに今年は敗戦の日から70年目の節目の年を迎えるという。生活は豊かになったが、家族制度は大きく崩壊。家庭の匂い、街の匂いまで変わってしまった。しみじみ昭和の風が恋しい。

今日もまた大雪の便り。横手のかまくら、秋田湯沢の犬っこ祭り、越後の鳥追い祭り、札幌の雪まつり…等々雪が主役の祭りや行事が各地で次々と開かれる…。

今年こそ天災の少ない年であってほしいと心から祈らずにはいられない。どうぞ平和な年でありますように―。

松過(まつすぎ)のまたも光陰矢の如く(高浜虚子)

 

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