「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(44)

長谷川伸の名作と小田富彌の丹下左膳

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

劇団にんげん座 2014年公演「六区の空の下に」のパンフレットの写真原巌著「親知り悪太郎」口絵(右)と林不忘著「大岡政談」装丁(新潮社・下) いずれも小田冨彌画▲原巌著「親知り悪太郎」口絵(右)と林不忘著「大岡政談」装丁(新潮社・下) いずれも小田冨彌画

年賀状の束に混ざって、古い友人M君からの手紙が配達された。「今年はお互いに傘寿を迎える訳だから、70代のうちに一度逢おうよ」という文面で、中に一月中旬の歌舞伎座の切符が一枚とチラシが同封されていた。

新装なった歌舞伎座は、成田屋(十二世市川団十郎)が亡くなり、大ファンだった中村屋(十八世中村勘三郎)が早逝してしまったので足が遠のいていた。

2階席の切符だったが、昼の部3幕目に松本幸四郎の「一本刀土俵入」が組まれていた。

幸四郎の「一本刀―」の駒形茂兵衛は古い建物時代の歌舞伎座でも見ていた。

そうあの時は、毎年楽しみにしていた浅草のお好み焼き染太郎の忘年会で「幻劇団」の座長をつとめていた中村歌江さんが安孫子屋の酌婦の役で出演していたのをなつかしく思い出した。今回の「お蔦」役は中村魁春で私には始めての「お蔦」だった。

突然隣の席のM君が小声で「ねえ何回位見ている?」と話しかけて来た。

彼とは昔新国劇狂いをした仲で、新国劇の「一本刀―」だけでも10回以上は見ているので、幕が開く間昔話で二人とも夢中になった。

数年前になるか浅草公会堂で、新国劇の「劇団若獅子」で笠原章の茂兵衛を見ているが、その時の「お蔦」役は現在の市川猿之助が四世を襲名する直前の亀治郎時代でその人気もあってか客入りも上々だった。

「一本刀―」のあと、亀治郎の舞踊「保名」があり、新国劇名物の「殺陣田村」も楽しかった。

「やっぱり島田の茂兵衛が一番良かったなァ」友人は遠くを見るような眼でつぶやいていた。

男の劇団と呼ばれ、当時の新国劇は本当に楽しかった。昭和40年代半ば、落ち目の新国劇はほんの一時だが、フジテレビの事業局に籍を置いていたことがあった。

当時、「とびだすえほん」の制作で一緒に苦労した横沢彪さん(一世を風靡した「ひょうきん族」他を世に送り出した名プロデューサー)から、新橋演舞場で上演していた新国劇の「風林火山」の切符を100枚程預かったことがあった。入りが悪いので要するに自由に配ってくれという訳だが、無料でもらった100枚もの切符を手にした時は淋しくて悲しくてたまらなかった。

心当たりに配ったが、中学時代の恩師W先生が「10枚欲しい」というので早速送ったところ、先生は何かの事情で私が切符を抱えて困っている―と勘違いしたらしく、代金をわざわざ届けに来てくれた。びっくりして丁寧にお返ししたが、その先生も今は消息不明―淋しい限りである。

M君のお陰で、本当に楽しい思い出に浸れた。島田正吾の茂兵衛はやはり浅草公会堂でも見ていて、その時の「お蔦」は三浦布美子だった。最後は新橋演舞場の島田の一人芝居の「一本刀―」で友人数人と出かけ、大道具に親しい知人が居たので、楽屋裏で開演準備をしている島田正吾を間近で見て、手伝いに来ていた本来はお蔦役の香川桂子が一生懸命に師匠島田の手伝いをしているのを見て胸があつくなった。

映画に芝居に、歌謡曲にと、話の筋書きは読者の皆様大半は御存知と思うが、中村勘三郎(十七世)の茂兵衛も二度か三度観ている。この芝居六代目尾上菊五郎の茂兵衛で昭和6年7月東京劇場で初演の幕を開けている。最初に登場する時の茂兵衛は洗いざらしの汚い浴衣姿で現れるが、この浴衣、芝居のない時は、六代目の所で大切に保存されていると聞いている。勘三郎(十七世)の茂兵衛はこの浴衣を着て登場するので、始めてその由来を聞いた時は舞台を見てぞくぞくぞくっとした。

十年後、横綱への夢を果たせず、渡世人となって登場する勘三郎の茂兵衛は、いかにも相撲取りあがりらしい小肥りで少々野暮ったさが残っていてリアルな感じがしたが、島田正吾の茂兵衛は粋で惚れ惚れする渡世人姿で登場する。

芝居の上での嘘だが花道に現れた島田の姿にはオーラがあり本当に惚れ込んだ。

何回見ても胸がおどった。島田で10回以上、そうそう前進座で中村梅之助の茂兵衛も観ている。M君のお陰で思い出が次から次へと湧いて来て(前にも本シリーズで書いたのに)思わず「一本刀―」で長くなってしまった。

 

藤井貢主演「一本刀土俵入り」の写真▲藤井貢主演「一本刀土俵入り」(昭和10年)

弥生美術館で小田富彌展

私は「一本刀」だけが好きというのではなく、長谷川伸の作品が大好きなのである。

「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」「瞼の母」…などなどずらり名作ぞろいである。

縞(しま)の合羽に三度笠。手甲脚絆(てっこうきゃはん)に旅草鞋(たびわらじ)、腰に差したる一本刀。御存知あの渡世人姿を定着させたのは画家の小田富彌だと言われている。

小田富彌は、林不忘作「新編大岡政談」で傍役として登場した「丹下左膳」のスタイルも創意工夫して後の左膳像を生んだ画家でもある。現在東大弥生門前の弥生美術館で3月一杯「小田富彌展」が開かれているので是非小閑の折御遊歩いただけたらと思っている。現在104歳になった中一弥(「鬼平犯科帳」や「剣客商売」等の挿絵で知られる)は小田富彌のお弟子さんの一人である。弥生美術館は「竹久夢二美術館」としても知られるが、竹久夢二のお子さんも一時小田富彌の弟子として居た―という話も中先生から聞いている。

中先生とは特に親しくしていて随分グループで、あちこち小旅行を楽しんだ。

今は三重県の津市にお住まいだが、100歳になった頃お訪ねして来た。思い出一杯の先生である。長谷川伸の話に戻るが、20年位前両国の工場を改装したようなアングラ劇場―たしか「ベニサンピット」と記憶しているが、その劇場で五大路子さんの一人芝居「長谷川伸の世界」というのを観に行ったのを思い出した。長谷川先生の幼い頃からの苦労した思い出が胸にしみた。今どこかのFM局で再放送していることを耳にしたが、テレビで「長谷川伸シリーズ」というのがあった。毎週連続で長谷川作品を放映していた。藤田まさと作詞の五木ひろしの歌う「旅鴉」がテーマ曲で、挿入歌がやはり五木の「裏通り」だった。毎週楽しみにしていたが、企画の上月信二さんという名がいつもトップにあったが、柏市に同姓同名の人が居て調べてみたら御本人だったので驚いた。当時はたしか信越放送の社長さんだったように記憶している。

長谷川伸シリーズの台本は全部手許にあるというので伺おうと思っていたが機を逸してしまった。上月さんは芸大出身で画家を志したが、絵ではなかなか食えないのでテレビの世界へ移ったと耳にしたが、一度油彩の作品を拝見したが山をテーマにした堂々とした立派な作品だった。

 

片岡千恵蔵主演「瞼の母」(昭和11年)の写真▲片岡千恵蔵主演「瞼の母」(昭和11年)

つい先日ビデオで、昭和41年の加藤泰監督「沓掛時次郎・遊侠一匹」を又又見た。何回見てもあの頃の錦ちゃんはすばらしく渥美清もすばらしかった。映画が斜陽となった頃の作品だが、この年4月錦之助はこの映画の封切後、淡路恵子との婚約を発表(結婚は同年11月20日)、続いて、五社英雄監督による「丹下左膳・飛燕居合斬り」を撮っている。股旅物といい丹下左膳といい、偶然前述の小田富彌先生と関連しているのも面白い。丹下左膳も随分多くの人が演じているが、やはり私達世代には「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」の大河内伝次郎以外考えられない。晩年親しくさせていただいた水島道太郎さんも演じているが、「私はもともと左利きなので、あの役は楽だった」と笑っていた顔をなつかしく思い出している。

昭和30年代の終り頃、歌舞伎座の2階のロビーで静かな初老の画家が、歌舞伎の名場面を色紙に描き、その場で即売していた。

長田幹彦の「島の娘」の挿絵などで私にとってもなつかしい芝居絵を得意とした大橋月皎先生の姿だった。

京都嵐山に続く大河内山荘には何となく行きそびれていたが、京都育ちのS子さんという友人に誘われて、出かけたことがあった。

中庭状の所に大河内伝次郎扮する丸橋忠弥の大きな絵が飾られていた。その作者が歌舞伎座の2階ロビーで色紙を描いていたあの大橋月皎先生のものだった。直射日光が当たっていたので、これでは絵がすぐにダメになってしまうと思い、心を残して山を降りた。

「ねえ、オオコウチデンジロウって何をやってた人なの?」賑やかな女子高生の一団とすれ違った。

 

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