「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(48)

懐かしい舞台裏の空気と千景みつるさん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

「沈清傳」の千景みつるさん(右)と大スターの小月冴子さんの写真▲「沈清傳」の千景みつるさん(右)と大スターの小月冴子さん

本鈴(ほんれい)の前の予鈴(よれい)が舞台裏から楽屋へと鳴り響く。

空気が一瞬ぴりぴりとした電流のように駆け抜け、さあっと緊張感が暗い舞台裏全体に伝わってゆく。

部外者である私にもその雰囲気は等しく伝わり、私はその瞬間がたまらなく好きだった。

旧友の弟のT君がサラリーマンになるのを嫌い、浅草の国際劇場の大道具へ入りたいと言って私に紹介を依頼してきた。昭和30年代、浅草六区がいちばん活況を呈していた頃のことである。当初私は猛反対したのだが、かなり強引な意志での頼みであり、長くは続かないだろうと思っていたが、その世界の水に合ったのか、ベテランの大道具係になってしまった。国際劇場が姿を消し、彼は新橋演舞場へ移り、最後は有楽町の旧都庁跡に出来た東京国際フォーラムに転じたので、立場は逆転し、ミーハー体質の私は随分便宜をはかってもらって、あちこちの劇場の楽屋の空気を吸うことができた。

T君は深酒がたたったのか、わずか50代そこそこで結婚もしないで、彼岸に渡ってしまった。

それにしても、開演直前のあの張りつめた空気がたまらなく懐かしい。

 

SKDの千景みつるさん

SKDに籍を置いていた千景みつるさんから、当時の写真や記事がごそっと送られてきた。千景さんとは数年前、私が浅草有遊会に招かれて、浅草公会堂での講演会に行った時知り合った。有遊会というのは、かつては演芸評論家の小島貞二先生が会長を務めていた会で(現在は遠藤佳三代表)同好者が集まって洒落を競い合うといった笑文芸集団といったものである。

小島先生は力士あがりで相撲評論家としても知られていて、何度か入会を勧められたが時間がとれず辞退していた。

ちょっと話が逸れるが、島根県の東出雲町に花谷幸三さんというお方がいた。私の書いた著作物に興味を持ってくれて何回か訪ねてきてくれた。花谷さんは江戸時代末期に東出雲町から輩出された「陣幕」という力士の顕彰会の会長を務めていた人で、地元でも角界でも有名な人だった。片足がちょっと不自由のようだったが、前出の小島先生とは相撲を通して親交があり、上京するごとに小島家へ訪れており、私も何回かお誘いを受けたが、それもなかなかスケジュールの都合のつかない日ばかりで果たせなかった。

 

日舞を舞う千景みつるさんの写真▲日舞を舞う千景みつるさん

小島貞二先生が市川市在住で、「わりと近くだから、そのうちお会いできるだろう」と思っていたが、ご縁がないままお二方とも故人になってしまった。それでも花谷さんによばれて松江市には数回行っている。

千景さんの話に戻るが、千景さんはSKD27期生として松竹歌劇団に入団している。そして昭和47年には森崎東監督の映画「藍より青く」に松坂慶子の妹役で出演している。

ちなみに「藍より青く」は、松坂慶子の第一回主演映画である。

SKDに入団した千景さんに大きな幸運が訪れる。昭和51年2月、国際劇場第一回ミュージカル、韓国の民話「沈清傳」|美しき睡蓮の物語|の主役に大抜擢されたのである。

以下に当時のプログラムにある作品の説明を引用させていただくと、「沈清傳」とは、紀元前2千年以上の昔、檀君王倹によって始められたと伝えられる。古い韓国において15世紀、世界最初の金属活字を発明し、ハングルという朝鮮文字を作るなど、大いに文運の隆盛を見た折、人間の誠実な愛情の物語「春香伝」などと共に、口から口へと伝えられ、磨き上げられたこの「沈清傳」も世に出た。この韓国の有名な古典物語は、古来貧しくとも楽しく助け合ってきた民衆生活、上に諂(へつら)い、下を虐げる小悪党の横行する政治的風土、民衆の心に深く根付いた仏教への信仰、夢幻的変化の中に真実を示す道教への信頼、純粋な孝心に表される民間道徳の伝承等々、長い民族の苦汁の歴史の中から作りあげられた貴重な作品であった。

伊藤雄之助、久松保夫、長谷川待子等の芸達者を加え、さらに韓国からは人気女優・崔銀姫、男優の金喜甲、人間文化財の朴貴妃らが出演するという話題作だった。

この作品は大きな話題を呼び、日韓親善の役割を果たした。

千景さんは、4年程でSKDを退団。現在は日舞に洋舞にと過去の経験を生かし、ボランティアでも活躍している。

 

手拭いが取り持つ不思議な縁

その千景さんから、今度日舞「市山流」の名取りになったからといって、「市山流の舞踊の会」にお招きをいただいた。

会場は日本橋の水天宮近くだったが、私は親しい仲間を誘って出かけた。

家元の市山松十郎|はて、どこかで聞いたような名だったが、何と私とはちょっとご縁のあるお人だった。

柏市からは、かって「柏市芸術文化振興審議委員」(だったかな?)という役を仰せつかって、定期的な会議によばれていた。その数人の中の一人が市山さんだった。

ある時会議が始まる前に、市山さんが私の席に来て、「家内が根本さんに見せてあげてほしいと言って…」と一本の手拭いを差し出した。

私は手拭いを見て驚いてしまった。冒頭に書いたT君の家へ私は当時よく出かけていたが、T君の家の斜め前に岡田屋さんという履物屋さんがあった。柏の旧道に面していて、近所の人はお互いに気楽に出入りしていた。

T君の家は自転車屋で、T君の父親と私の父は同じ村の出で、親戚と言っていいような間柄だった。その岡田履物屋さんの娘さんが市山松十郎さんの奥さんなのだという。

 

筆者がマンガを描いた岡田屋の手拭いの写真▲筆者がマンガを描いた岡田屋の手拭い

岡田履物店は廃業し、当時喫茶店になっていた。さらに岡田さんの店主はよくT君の家に出入りしていて、私とも旧知の間柄で、差し出された手拭いは正しく私が20歳前後に描いたものだった。岡田さんでは履物屋から喫茶店、今はその店も止めてしまったそうだが、私の描いた十二支のマンガの手拭いは未だに染色を変えたりして使い続けているのだという。

流石に世間は狭いものだなァと驚いてしまった。60年間使い続けているという手拭いを一本もらったが、千景さんとの距離がまた一段と近くなった思いだった。

千景さんの踊りの会の日には、もちろん家元の楽屋にも顔を出した。家元の奥さんは当時まだ幼かったが、私のことを「手拭いの絵を描いてくれた人」として覚えていてくれた。それにしても、奇遇だった。千景さんも驚いていた。

部外者だが、楽屋裏の空気がたまらなく懐かしい。国際劇場の例で言えば、名物の屋台崩し(舞台の家が大火事で焼け落ちる様や、山が崩れたりするスペクタクルシーン)も大道具さんが皆手仕事で手際よく行っていた。

舞台は広いが国際劇場の舞台に廻り舞台はない。映画が上映され始めると、スクリーンの裏はすぐに仕事場になり、大道具の背景画の製作にかかる。舞台が仕事場なので仕事はどうしても夜になる。四大踊りの前は幾日も徹夜になり、酒をあおりながら夜を徹してバケツに溶いた泥絵具で絵を描き続ける。身体に良い訳はない。しかし今となっては邪魔にならないようにしながら過ごした舞台裏の夜がたまらなく懐かしい。

初日の前日には「通し稽古」というのがあった。踊り子も本物の衣装をつけて、本番と同様に演ずる。演出の先生が怒鳴って、何回もやり直しをさせる。この徹夜稽古が労働基準法とかに触れて出来なくなってしまった。

一度大道具のセットで昼寝してしまい、ガラガラ動き出して、あわてて飛び降りたことがあった。思えばだらしない毎日を送っていたものと自ら恥じることばかりである。

千景さんとの昔話を楽しみにしている。

 

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