「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(53)

「貞兄」こと湯浅貞一郎さんの思い出

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

若いころの湯浅貞一郎さんの写真▲若いころの湯浅貞一郎さん

本紙2月号の末尾に、(世界の政治情勢から)「取り返しのつかないことが起こらないように」「大きな天災が来ないように」―近づく春の足音に耳をすましながら、ひたすら祈り続ける毎日である―と書いたが、又もや大きな災害が発生してしまった。

熊本地震が起った14日の夜9時26分以降、次々と起る大きな地震のニュースにテレビに釘付けとなり、仕事にも手がつかなくなってしまった。

熊本の三角(みすみ)には、母の従妹ながら、私の幼年時代「姉ちゃん」と呼んで一緒に生活した一家が住んでいる。又菊池市には少女雑誌の凄いコレクターの村崎修三氏も居り、この方には色々親しくさせていただいた。

あれこれ思うと気が気ではない。しかし、原稿の締め切りも迫って居り、心苦しくも今もって地獄の時を過ごしている皆様に一人でも多くの御無事をお祈りしつつ今月分の原稿に取りかかることにする。

 

戦争で一人ぼっちに

私の幼馴染みに通称「貞ちゃん」本名湯浅貞一郎という友が居た。師の小松崎茂先生が当時の田舎町「柏」へ越して来たのは昭和26年3月末のことだった。風の便りにその「貞ちゃん」が先生の家へ居候をしているというのを耳にし、その再会も楽しみにしていた。

「貞ちゃん」は私より5歳年長だったので、以下「貞兄」として書き続けることにする。

師の小松崎先生は戦後、「戦争を起こしたのは我々大人であり、苦労している若い人の面倒を見るのは我々の責務である―」として、柏に来る前、狭い家に多くの若者を引きとっていた。戦後の飢餓に苦しんだあの極限状態の中でである。貞兄もその一人だったが、転居して来た先生一家に貞兄の姿はなかった。丁度結核を患い、銚子にあった療養所に入院中で逢えなかった貞兄と再会したのは、それから2年余り後のことだった。助骨を何本か切除して一応病気は一区切りしての退院だった。昭和17年頃、少年航空兵を志した貞兄を涙ながらに南千住のホームで見送った日から10年余りの歳月が流れていた。

貞兄の家は小鳥屋を営んでいて、小柄な父親が、いつも浅草寺の境内、二天門の近くで鳥籠を並べて商売をしていた。母親や、博子さんという美人のお姉さんは、家が私の家から4軒目だったので始終私の家へ出入りしていた。昭和20年3月10日の東京大空襲で母親と弟の周ちゃんというのが犠牲になった。

そして、戦後すぐに父親とお姉さんが、栄養失調と結核で世を去り、貞兄は文字通り一人ぽっちになり、噂を便りに戦前から出入りしていた小松崎家を訪ね当て、居候となったが、今度は自身が結核を発病して療養所へ入っていたという訳である。退院して小松崎家で一緒に生活することになったが、若い人が多いので、先生は結核の感染を恐れて、庭の隅に三畳一間の小屋を建て、貞兄を一人住まわせた。ところが私達は、先生の目をぬすんで、よくその小屋へ出かけ、折り重なるように一つの布団の中で固まって話しこんだりしていたのだから、これは文字通り「親の心子知らず」の典型のようなものだった。

 

「森でハミング」(筆者画)の絵▲「森でハミング」(筆者画)

貞兄は幼少期から異常ともいえる苦労を重ねたせいかすこぶる真面目なのに奇行の多かった人で、そのひとつひとつを取りあげたら、それだけで一冊の本が書ける程で、友人として、いや年下の後輩として、私もそれなりに苦労をした。

程なく貞兄は編集者の紹介で版下屋の勉強をすることになり、当時売れっ子の版下屋の許へ移り、しばらくして独立した。

今は、パソコンひとつで何でも出来てしまうが、当時は雑誌の活字以外の文字や、時にはカットまで版下屋の手描きによるもので、ベテランの版下屋となればかなりの収入を得ていた。貞兄は水道橋駅から神保町へ向う大通りにあった「はるな食堂」(今は無い)の角を曲がった質屋の隣りのアパートへ移り仕事を始めた。

はるな食堂は外食券食堂で、まだ主食の米飯を食べるには外食券が要る時代だった。

何しろ付け焼刃で仕事を覚え、仕事は取って来ても、まだそれをこなす技術は充分に整っていなかった。私はよく三畳一間で水道は使用しないという約束で借りたアパートへ呼び出されて仕事を手伝わされた。公然と水道は使えないので人目のない時、こっそり筆洗の水を汲んで来て、コップひとつないので人目を忍んで手の平で水をそそくさと飲んだ。徹夜が多かったので、朝になると水道橋駅のガード下にあったトイレで顔を洗った。

駅からは朝のラッシュでどっと人が吐き出されて来る。駅のトイレで洗顔をしている私には大勢の人の波が朝日の中でまぶしく目に映った。

前に書いたように貞兄は相当な変人であり、早とちりでおっちょこちょいだった。仕事に少し慣れて来た頃、秋田書店の専属みたいになったが折り込みの翌月号の予告に「冒険王」「漫画王」とかなり大きな文字を書いたが、何を勘違いしたか「王」の字を「玉」と書いてしまい、担当編集者も気付かずに出版されてしまった。「冒険玉」「漫画玉」事件はしばらく尾をひいた。

又、ある日私が偶然寄った時、彼が秋田書店から興奮して戻って来て、「お前が来るのは判っていたんで仕事持って来た。一寸描いてくれ!」と石森章太郎さんの原稿を差し出した。銀座の絵で老人が一人うずくまっているだけの絵で、「バックに銀座のネオンをぎっしり描いてくれ」と一頁まるまるの注文だった。その頃手塚治虫さんも原稿が遅いので編集者が腹いせに「手塚治虫」という名前にルビを振って、わざと「うそむし」とか「おそむし」とかいたずらして、ささやかなうさ晴らしをしていた。石森さんとは親しかったので、ネオンの文字をそんないたずらも盛りこんでかなり時間を掛けて一頁を仕上げた。

ところが、これも貞兄の早とちりで、「その時銀座中のネオンが一斉に消えた!」という頁だったことが直後に判り、私は「こん畜生!」と思いながらその頁を真っ黒に塗りつぶした。

貞兄は鰻が好物で、よくあちこちにあったチェーン店の安い「登亭のうなぎ」を食べに出かけた。因みに当時「登亭」の土産用の包装紙は私が描いたもので、長く使ってくれたが、貞兄は登亭のうなぎが性に合ったらしかった。

 

「春が来た」(筆者画)の絵▲「春が来た」(筆者画)

後年私がどうにか忙しく稼いでいた頃、浅草橋にある老舗のうなぎ屋へ招待したが、「登亭の方が旨い!」といってゆずらなかった。

貞兄が水なし三畳間のアパート時代、療養所仲間の「大森アッチ」という人に紹介された。食物も満足にない結核療養所での患者同志の絆は特別なものらしく、本当に親しそうだった。大森アッチ―本当は大森厚。私は数回の出会いだったが、大森さんが今は北区にある中央工学校の理事長であり、昨年8月その訃報を新聞で知った。

大森さんは、元全国専修学校各種学校総連合会長という要職にもあった人だが、八方破れの貞兄との不思議な仲が面白かった。

更に私の親友でもある柏市在住の福山広重さんと大森さんは小学時代から机を並べた親友と聞き驚かされた。中央工学校はもとは南大塚の方にあったように聞いている。田中角栄がここで学んだことで知られていて、不思議な縁も感じた。

貞兄のエピソードは多すぎて書ききれなかった。手紙も一人よがりで内容が判らないものが多かったが、ある日ハガキにマジックで真っ黒な人形みたいな絵が描いてあり、「スミちゃん(奥さんの名)死んだマックロケのケ」と書いてあり、電話をすると昼火事で家が全焼して奥さんが焼死したとあって私は驚きで声を失った。

それから少したって、彼も彼岸の人となった。人生は不公平なもので、いつも不幸な人生というと彼を思い出してしまう。3人の娘に恵まれたが、奥さんと3人の娘が炬燵に入ると、「オレの入る場所が無(ね)えんだ」と歎いていた貞兄を思い出す。

今月は九州の大地震のことで書きたいテーマが書けなかった。地震の不幸に巡り合ってしまった人には悼みも慰めの言葉も見つからない。心から合掌するのみである。

 

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