「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(54)

小松崎茂が唯一ライバル視した弟子荷義之

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

若き日の荷義之氏の写真▲若き日の荷義之氏(昭和31年11月7日撮影)

来月末近く共立女子大学から講演会の話が舞いこんだ。テーマはまちまちだが、時折こうした話が持ちこまれ時には地方へも招ばれることがある。「まるで旅役者みたいだなー」少からず自嘲の思いにとらわれる事もある。

何年か前に山本晋也カントクが取材に来た時、「知ったか振ったり、年寄りぶったりで一寸嫌だなァ」と言ったら、カントクから、「いやあ私達はもう立派な年寄りですよ」と逆にたしなめられた。

講演のあとの質問コーナーで、よく「弟子って何をするんですか?」と聞かれることがある。現在のマンガ家や劇画家のアシスタントとは一寸ニュアンスが異なるので、当時の従弟制度は今の若い人には仲々理解出来ないかもしれない。先生の家へ通うか住込んだりして生活を共にして色々雑用を手伝いながら、師からいわば無言の教えを得るといったもので、犬の散歩、夕食の買物、参考書の整理、その他すべての雑用をこなすのである。

あこがれの先生と起居を共にし、原稿督促に泊りがけに来ている各出版社の編集者に囲まれて、私自身は僅かの疑問を胸の奥に感じながらも嬉しくてたまらない夢のような日々を送っていた。「小松崎先生の弟子というのは全部で何人ぐらい居たの?」これもよく聞かれる。今となっては(大した自慢にはならないが)亡くなった先生も忘れてしまっていたし、おそらく私のみの知るところとなっていることと思う。通いと住み込みの弟子を含めて(私の記録では)25名にのぼる。

その他私淑していた人、自称弟子を名乗っていた人を入れると、かなりの人数になる。

 

ピカ一の才能の持ち主

その多くの弟子の中で、何といってもピカ一と呼んでいいのが今月取りあげさせていただいた荷義之さんである。昭和28年は小松崎先生の仕事の中でも(絵物語)の大ブームの頃で、一番忙しい時だった。入門順に並べれば私は4番目に当るが、一番弟子の秋田県湯沢市出身の岩井川峻一さんが独立した直後で、一番忙しい時代に書生として私は一人で住み込んでいた。先に書いたように一人で雑用をこなしていた訳で、丁度その頃前から居たハナちゃんというお手伝いさんが結婚を機に小松崎家を去ることになっていた。

小松崎家にはお手伝いさんは常に2人住込んで居たが、その一人が欠けることになり、小松崎家では大変に困ってしまった。

ちょうどその最中に荷さんと福島県郡山市出身の長岡美好さんが入門を願い出て来た。

荷さんは群馬県前橋市に昭和10年12月28日に生まれている。もともと天才肌の荷さんは、はじめ当時少年雑誌界の帝王として君臨していた「少年王者」の山川惣治先生宅へ弟子として入りたかったようだが、縁がなかったようで小松崎宅へ住み込むことになった。

 

X号駆逐戦車「ヤークトパンテル」 荷義之画の絵▲X号駆逐戦車「ヤークトパンテル」 荷義之画

(私個人の思いだが)先生はお手伝いさんを一人探す条件で、荷さんの入門を許した。

この非常識な話に私は陰で義憤を感じたが、時代が時代だし、黙している他はなかった。

荷さんは苦労して、やっと素朴なフクちゃんというお手伝いさんを探し出して入門を果した。荷さんも私も同じ昭和10年生れで、私は2月の早生れで、荷さんが12月の末生れ。学年では私が一年先輩となる。学年では一年先輩だといっても荷さんはもともと、すばらしい才能に恵まれた人だった。

高校時代から先生が描いていた(当時流行っていた)西部劇の銃の型から今は先住民と呼ばれているインディアンの風俗など刻明に調べて、ハガキや手紙で送って来ていて、先生はそれらを資料としてスクラップブックに貼って参考にしていた。小松崎一門でも、先生がライバルとして一目も二目も置いていたのは荷義之さん一人だけだった。こうして書いて来たが、私達二人は「義ちゃん」「圭助さん」と名前を呼び合う仲で、今もそれは続いている。

私が偕成社から「ノートルダムのせむし男」の単行本を依頼された時、中の一枚のペン画が珍しく編集長にほめられた。

その続きを描いていた時、遊びに寄った義ちゃんが、上りこんで、いきなりペンでガリガリと出来上った絵の上から描き足して、編集部でほめられたペンの線を目茶苦茶にしてしまった。ところが完成した絵はすばらしい出来栄えで、文句なしに脱帽してしまった。

 

「リトルビックホーンの戦い 第七騎兵隊の悲劇」荷義之画の絵▲「リトルビックホーンの戦い 第七騎兵隊の悲劇」荷義之画

義ちゃんは、(やっぱり普段の呼び方にさせていただく)戦車、戦闘機、軍艦、SFものとどれをとっても超一流。時代物でも何でもオールマイティで全国にも多くのファンを持つ。それでも小松崎家に入門する時は、一年先輩の私に「将来絵で食べて行けるものでしょうか……」と切々と書いて来た手紙も残っているし、昭和39年故郷前橋へ転居する時も「前橋まで依頼に来てくれるだろうか」という切実な不安を認めた手紙も手許に残っている。天才荷義之のナイーブな一面も読んでとれる。

話が前後するが、義ちゃんは昭和29年春に小松崎家に入門しながらもその年の暮には独立をして小松崎家を去っている。

長い間ではなかったが、兄弟々子として、同じ釜の飯を食べたことに、私はひそかに誇りにさえ思っている。その私達二人も気がつけば八十路の坂を越している。彼には沢山の画集も出版されているが、全国の少年達を熱狂させた多くの作品は将来どのような形で保存されるのか心配している一人である。

幸いしっかりした奥様やお嬢さんが居ることだし、散逸しないように心から楽しみにしている。義ちゃんとの思い出も昭和28年以来のべ60年を越している。早いものである。

思い出は盡きないが、どうしても私の大好きな彼の作品を少しでも大きく掲載したいので駄文を少し控えさせていただいた。

「もう俺達も、もうじきオシマイさ。仕方ないことだよ」電話ではいつもそんな会話になるが「お互い何とかもう少ししぶとく頑張ろうぜ。なあ義ちゃん!」

 

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