「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(56)

中央工学校復興に尽力した大森厚と田中角栄

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

若き日の田中角栄氏と大森厚氏の写真▲若き日の田中角栄氏(左)と大森厚氏(昭和43年、田中邸庭にて。友正有撮影)

昨年7月頃から体調をくずし、連載を休ませていただき、最初1か月休めば体調もとり戻せると思いながら、もう1か月、もう1か月と休みが長くなり、気がつくと随分長い休みとなってしまった。

暮には不整脈がなおらず、息切れもひどく入院して手術もしたが快くならないので、とうとうペースメーカーを埋め込む羽目になり、どうにか老いた命をつなぎとめて現在生活を続けている。

高齢化社会になったとはいえ、誰しも死へ向かう体験は初めてであり、加齢を重ねての自分の弱ってゆく身体と向き合うのも勿論初めてのことで何が起こるか見当もつかない。還暦を過ぎた頃も、月日の流れの早さを友人達と嘆き合ったが、古稀を過ぎた頃からは、まるで新幹線に乗り換えたように、びゅーん、びゅーんと窓の外を凄いスピードで日時が流れ去ってゆく。

休載中は色々な方からお見舞いや励ましのお便りや電話をいただいた。

お心のこもったお便りにも接し、心から御礼を申し上げる次第である。体調がすぐれず、ぐずぐず過ごしてしまったが、昨年7月から休ませていただいて、その間私は今月4日に又ひとつ年を重ね82歳になってしまった。

「人生は邂逅(かいこう)と別離だ」-何かの本で読んだ。つまり巡り合いと別れだということで、文字通り「一期一会」という言葉が深く心に突きささる。八十路の坂に入り、私自身も今までずいぶん多くの人との出会いがあり、別れもあった。

出会って、その後何十年もの長い交流が続いている人も居れば、たった一度お会いしただけなのに、しっかり心に残っている人も居る。

 

田中角栄の最終学歴

あの人、この人と思い出しては、縁というものは本当に不思議なものと、この頃しみじみと深い思いにとらわれることも多くなった。

本紙の昨年4月号に幼馴染みの湯浅貞一郎さんのことを書かせていただいたが、読者の皆様はもうとうに忘れてしまったにちがいない。

かなりの変人で沢山の面白いエピソードを残しているが、昭和30年頃、版下屋として独立した貞ちゃん(湯浅貞一郎さんを私達はそう呼んでいた)に結核の療養所仲間として紹介されたのが大森厚さんだった。まだ食糧にも恵まれない時代だったが、貞ちゃんは大森さんを「アッチ、アッチ」と親しく呼んでうれしそうだった。

私が大森さんと直接会ったのは貞ちゃんを通じてほんの数回だったが、何と私の親友の福山広重さん(柏市在住。本紙、数年前に登場)とは小学校から机を並べた友と聞いてその偶然に驚いてしまった。

大森さんの兄の暁(さとる)さんは日本海軍航空隊に志願し、その後、佐世保海軍航空隊に属し、当時世界最高性能を誇った、川西九七式飛行艇のパイロットとなった。

川西九七式飛行艇は、航続距離が4500キロもある大型艇で、昭和11年から17年まで179機しか作られていない。物資の輸送用のほかに、偵察用や雷撃用があったようだ。

史上初の空母同士の戦闘で知られる珊瑚(サンゴ)海海戦で兄君は、死闘をくり返し25歳の若さで南半球の海に花と散った。

昭和29年、戦後の大森厚さんは、父の志を継いで、中央工学校の復興に粉骨砕身する。私が大森厚さんに会ったのはちょうどその頃である。

 

「春を待つ」 筆者画▲「春を待つ」 筆者画

当時中央工学校の校長は大森氏の父君に請われて田中角栄がその任にあった。

日本の政治史に偉大な足跡を残したあの田中角栄である。

大学も出ずに首相まで上り詰めたことから、往時は「今太閤」とも呼ばれていた。

いまだに最終学歴が「尋常小学校卒」という誤った情報が流布しているが、大森さんの書によると「あれは間違いで、田中先生の最終学歴は『中央工学校卒』であり、昭和12年2月、当時は神田中猿楽町にあった中央工学校土木科を卒業している」と後に書き残している。

ちなみに中猿楽町は昭和9年の区画整理により、正式な住所は神田区神保町2の20となった。仄聞によれば、神田校舎に隣接し、同じ2の20にあった東亜高等予備学校(現・愛全公園)に、若き日の周恩来総理が留学していたという。周恩来は、大正6年、東亜高等予備学校で日本語を学びながら明治大学政治経済科に通っていたという。大正6年から8年にかけてというから時期は異なるが、昭和47年の日中国交正常化の立役者となった二人の大政治家が時空を隔てて同じ敷地内で学んでいたわけである。

学校経営は苦難の連続だったようだが、昭和28年6月10日「中央工学校第5代校長田中角栄」が誕生し、角栄の経営手腕で中央工学校は現在にいたる基礎固めが出来あがったのだという。

田中角栄は、校長在任の20年間に、戦後初めての30代で郵政大臣(昭和32年)に就任したのを皮切りに、大蔵大臣(昭和37年)、通商産業大臣(昭和46年)と、要職を歴任したが、中央工学校の入学式と卒業式には、一度も欠席はしなかったという。

大森厚さんはその間ずっと「目白通い」を続けたという。大森さんと私との交流はほんの数回きりのものだったが、出会いというものは本当に人知の及ぶところではなく、面白いものだと改めていろいろな人達との出会いに感謝している。

中央工学校理事長としての輝やかしい業績のみならず、数々の栄誉に彩られた大森さんも、平成27年8月8日、83歳で彼岸へ渡った。

 

 

昭和9年会にこだわった玉置宏氏の写真▲昭和9年会にこだわった玉置宏氏(中)。左は筆者

あの人もこの人も彼岸に

先日何で調べたのか長崎市五嶋町の宮崎さんという未知の人から突然お電話をいただいた。親しい友人、知人が皆他界してしまい往時の話をする相手が居なくなってしまい、淋しくてたまらないという。どうやら同世代の人らしく、時間を作って上野駅でお目にかかることにした。私の方も親しい友人2人に同席してもらい、行きつけの店で4人で楽しい刻を過ごした。私ぐらいの年になると、「そのうちお会いしましょう」と約しながら、その機会を逃してしまうことも多くなった。

安藤鶴夫先生のお嬢さんのはる子さん。CDの「芸阿呆」やDVDの「明治はるあき」等々色々送っていただきながら、新橋演舞場の「吉右衛門劇団」公演にもお誘いいただいたが、その日は私がどうしても他の用事で伺えず、近いうち御連絡しようと思っているところへ訃報が届いた。残念でたまらない。

光本幸子さん。御存知「寅さんマドンナ」の第一号である。面識はあったが、山路ふみ子文化財団のパーティにお招きいただいた折、賑やかなパーティ会場で、一人ぽつんと淋しそうにしていたので、しばらく二人で話しこんだ。「私、芸能界の人達は好きになれないんです」とのこと。後日、ゆっくりお会いしてという食事の約束をしたが、これも彼女の死で実現しなかった。

立川談志さんとは「なつメロ談義」に3回誘われて、3回とも中断。お願いごとをしたのに病気で果たせなかった小沢昭一さん、永六輔さん。先日、おヒョイこと藤村俊二さんが他界して昭和9年会の人達も大半が故人になってしまった。昭和9年生まれにこだわり続けた玉置宏さん。愛川欽也、坂上二郎、長門裕之、みんな、みいんな居なくなってしまった。

長崎から訪ねて来てくれた宮崎さん同様、気が付けば私の周囲からも友人、知人ともにかなりの数の人が手の届かない世界へ籍を移してしまっている。私自身物忘れもひどくなった。

腰を痛めて、ステッキ片手によたよた歩き。まったく見られたもんではない。

明日があるという保障は誰にもない。

老後悠々気がつけばひとり-なんてやせ我慢を言っているが、こんな都都逸がふと頭を過った。

あとの始末もしっかりせずに

浮世みすてて一人旅     (東喜代駒)

 

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