夢見る頃を過ぎても(57)
小松崎茂先生が買ってくれたサトウ・ハチロー童謡集
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
近頃、これも老年になったせいか、少し涙もろくなったようで、一寸したことでも眼頭があつくなる現象が多くなった。
先日もテレビで「BS日本・こころの歌」のフォーレスタの歌う日本の四季をつづる唱歌、童謡の歌声を聞いて胸がキュンとなった。
「早春賦」「花かげ」「雨降りお月さん」「ちいさい秋みつけた」「もみじ」「ゆき」…どの歌も心にしみる歌ばかり…。歌を聞き終わって、しばらく又遠くなった日々に思いを馳せた。
昭和28年、私は地元の東葛高校を卒業し、在学中から入り浸っていた師の小松崎先生宅へ晴れて住み込みの門下生として師と起居を共にしていた。絵物語の全盛時で小松崎茂の名は幼、少年雑誌界に轟いていた。その年の秋、師の許へサトウ・ハチロー先生から直筆のハガキが届き、サトウ先生自身の童謡集「叱られぼうず」が出版されたので、ぜひ買ってほしいという内容だった。私は欲しくて欲しくてたまらなかったが、当時8百円という定価は私としては一寸重荷であきらめる他なかった。
そんな私を見て小松崎先生が、「圭ちゃんは日頃一生懸命俺のために頑張ってくれているから、サトウ先生の童謡集、褒美(ほうび)として買ってやろう」と言って自分の分と2冊注文してくれた。
サイン入りのサトウハチロー童謡集「叱られぼうず」。この本を手にしたときの感激は今もって忘れることが出来ない。因みに、箱入り、2冊セット(一冊は楽譜入り)のこの分厚い童謡集は、翌昭和29年に文部大臣賞を受賞している。以来、北原白秋、野口雨情、西條八十の詩集、童謡集等とともに、座右の書として私の仕事場の書棚に並んでいる。
それから数年後、独立した私は幼・少年雑誌にカットを描いたり、単行本の挿絵を手がけたり、テレビ時代を迎え、キャラクターグッズのイラストで仕事は急速に多忙になっていった。しかしTVキャラクターのイラストは自分自身のオリジナルイラストではないので、多忙になればなる程、心の隅に巣くった淋しさは、ずっと拭えなかった。そんな頃、集英社の幼児雑誌から、サトウ先生の詩に添えるイラストの仕事が舞い込んだ。
夢中になって取り組んだのは言うまでもない。出版直後にサトウ先生がほめて下さったということを知人の編集者から伝え聞いて、私は嬉しくて思いきって図々しくもサトウ先生をお訪ねすることにした。
サトウ先生の御自宅は、今なら地下鉄千代田線の根津駅で降りて、東大へ向かう坂道を上り、その坂道から右折した所にあった。
強面編集者Kさんのこと
ここで一寸余談になるが、光文社発行の少年雑誌『少年』にKさんという海軍兵学校あがりの強面(こわもて)の編集者が居た。Kさんは、集英社で雑誌『明星』の創刊に携わった後、光文社へ移り、『少年』の編集者時代、豪腕の編集者として漫画家はじめ多くの執筆家に恐れられていた。その迫力ある人柄に惚れた手塚治虫先生に口説かれ、虫プロ商事の常務に迎えられた。虫プロ商事倒産後は私と2人で「日本漫画家著作権者協同組合」なるものを立ちあげ、漫画家の著作権擁護の仕事に入った。秋葉原の電気屋街の奥の方に事務所を開いたので私も毎日のようにその事務所へ通った時期があった。その時代の後、Kさんは、赤塚不二夫さんのフジオプロの専務として、自身「赤塚の金庫番」と称し赤塚さんを支えて来た。
寄り道が長くなったが、『少年』の編集者時代、サトウ先生宅へ原稿を取りに行き、その夜飲んで原稿を紛失してしまったそうで、サトウ先生に「下書きをもとに、も一度書いてください」と謝りに出かけたそうだが、サトウ先生は烈火の如く怒り、「ボクは下書きを書くような下らない詩なんて書かないっ!」と怒鳴られ、サトウ先生は坂の下まで箒(ほうき)をふりあげてKさんを追いかけて来た―という話が伝わっていた。しかしこの話いまだに真偽のほどは判らない。Kさんと私は私の高校生時代小松崎先生の家で知り合い、以来仕事上では私のTVキャラクター業界での兄貴分として長く深い交りを結んだ仲だった。ある時思い切ってその事実を確かめたところ、「ふ、ふ、ふ」と笑い否定はしなかったので、伝説として話に尾ひれはついたものの、そうした事実はどうやらあったらしい。Kさんは、現在老人ホームで静かに余生を送っている。
そんな伝説?が伝わる坂を私は上がっていった。サトウ先生宅では昔の浅草時代の武勇伝から猥談にまで及び、話が面白くて、思わず長居をしてしまった。
空襲前の浅草アバンチュール
ここで又脱線をさせていただく。
昭和19年頃、八王子に住む母の従妹の政枝姉が遊びに来てくれた。美人だった政枝姉は少女から娘時代まで、恵まれた家庭で「お嬢さん」として大事に育てられたので戦時下ながら洒落た洋服で現れ、一緒に歩くと大勢の視線が集まった。
私はそれが得意でもあり、時折警戒警報の鳴り始めた頃なのに、祖父母や両親を説きふせて二人して手をとり合って浅草へ出かけた。早く帰るという固い約束をしてやっと許してもらって出て来たのだが、六区で映画を見てしまったので、外へ出ると、もうすっかり浅草公園は、漆黒の闇の中にあった。
人気のない境内を横切り、夢中で帰路を急いだが、空には折れそうな細い三日月だけの闇夜で、観音様本堂の巨大なシルエットが不気味なほど大きく闇の中に溶けこんでいた。
思えばその夜が私と幼い頃より慣れ親しんだ観音様旧本堂との永遠の別れになった。御承知の通り、旧本堂は昭和20年3月10日の東京大空襲で灰燼に帰している。
―そんな思い出もサトウ先生の所で話をしたように覚えている。
帰路を急ぐ私達に追い討ちをかけるように「ブオーッ」という警戒警報のサイレンが鳴り渡った。帰宅すると、家の方は大変なことになっていて、祖父を中心に町内の頭(かしら)や親しくしていた警察官、それに近所の人達十数人が懐中電灯はもとより、提灯も十数個あったろうか…これから浅草へ私達を探しに出る所で大変な騒ぎになっていた。
そこへ私達二人が無事に帰ったので「良かった。良かった」と言って集まった人達も大喜びの騒ぎになった。
職人で厳格、超短気な祖父に今日は大目玉をくらうのを覚悟していたが、二人の元気な姿を見て祖父は涙を流してその場へへたりこんでしまい、大目玉は免れた。国民学校(小学校)4年生。私にとっては大きな大きなアバンチュールだった。
政枝姉は大好きな姉貴の一人だったが、戦後恋愛して熊本へ嫁ぎ、今はいろいろ苦労しているらしい。童謡の話から、又脱線を重ねてしまった。
仲間ほしさにエンコにでれば
サトウ先生は、昭和48年11月13日に70歳で彼岸に渡っている。大好きなサトウ先生の「ちいさい秋みつけた」は放送番組から生まれた。昭和37年ボニージャックスでレコード化され全国に広まった。
ボニージャックスのリーダー格ロクさんこと西脇久夫さんとは別の会で何回かお会いすることが出来た。
サトウ先生と浅草の話の中で伺った詩の一節、今月はこれで筆を擱かせていただくことにする。
「仲間(なかま)ほしさに
エンコ(浅草公園)にでれば
今日もデカの目
安ジンタ――」
16歳頃の作と聞いた。もうひとつ、これは18歳か19歳頃の作という。
「―シネマを出れば
こぬか雨
いとし女の肩に降る
誰が泣くのか
泣かすのか
クラリネットのすすり泣き」
(サトウ・ハチロー)