「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(59)

戦中・戦後の荒れた学校生活

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

「次郎案山子」に出演した海老原三夫君の写真▲「次郎案山子」に出演した海老原三夫君(中)

あれは昨年、いや一昨年の秋だったか立教大学演劇部OB会の集りが新宿御苑近くの中華料理店で開かれ、私も招かれた。

中学時代からの親友2人。海老原三夫君は立教高校から立教大学へ。永井康雄君は都立高校から明治大学へ進んだ。学校は異なるが、2人とも演劇関係を目指したのは、中学時代にその要因があって、話は戦後の混乱の時代までさかのぼらなければならない。

何回も書いているが、私は昭和20年3月10日の東京大空襲で罹災し、翌4月1日の新学期から柏町立柏第一小学校へ転校生として移って来た。昭和20年の4月、校庭から望む常磐線の線路際の桜は満開だったが、連日の空襲は続いていて空襲警報が鳴ると、授業は中止になり、すぐ学校の裏山へ退避するといった毎日が続いていた。柏には陸軍の連隊もあり、高射砲陣地もあり、陸軍の飛行場もあったし、日立の大きな軍需工場もあったので、アメリカ軍のグラマンとかムスタングなどによる空襲も多かった。

そうした中で学校生活も極端に荒んでいて、教室内へ煙草を持ちこんでの喫煙なんて日常茶飯事であり、クラス毎にボスが居て、暴力行為に明け暮れる毎日だった。

8月に終戦を迎える訳だが、学校生活は益々ひどくなり、その荒れ狂った世相の中で、私達は新しい6・3・3制の学制に従って新制中学の一期生となった。校舎はないので、しばらくは小学校へ同居の形になった。

2年生になった夏休みに広大な敷地に、どこかの兵舎の古材で建てたというたった一棟の木造の校舎が出来、私達はその校舎に移った。

2年生の時、テスト的に、「実業組」と「進学組」とが分けられた。進学組は高校へ進学する予定の生徒達。実業組は中学3年で卒業後、すぐ家業へ就くなり、社会へ出る予定の生徒達だった。当時の柏では、ちょうど実業組が4クラス。進学組が2クラスだった。

 

当時筆者が描いた学生演劇のポスターやパンフレットの表紙▲当時筆者が描いた学生演劇のポスターやパンフレットの表紙(これらは、その一部)

戦争が終わったばかり。その頃は高校へ進む生徒はこの辺りでも3分の1程度だったのである。学校生活があまりに荒れていたので、冒頭に記した海老原君、永井君は、経済的に恵まれた家庭だったので、2人とも日頃の学校生活から逃れて高校は都内の学校へ進学した。

海老原君からは私も立教高校へ共に進学するよう熱心に誘われたが、当時の私の家では経済的に無理だったので、私は親しい友と行動を共に出来ず、地元の東葛高校へ進んだ。

 

学生演劇に熱中した頃

一寸話が逸れたが、中学2年生の折、クラスで演劇をやろうということになり、私が神田の古本屋街でやっと見つけた村山知義のシナリオをもとに島崎藤村の「破戒」を上演することになった。荒れた学園生活の中で、何かひとつ夢中に取り組みたいものが欲しかった。

ちょうど神田の共立講堂で新協劇団の「破戒」が上演されていた。主役の瀬川丑松に野々村潔(岩下志麻の父君)、ヒロインのお志保役は誰だったか失念してしまったが、猪子蓮太郎役は後に東映映画でも活躍した名優薄田研二が扮していた。私は海老原君と2人で、どうにか乗車券を手に入れ、共立講堂へ出かけた。幸い芝居の切符も入手出来て、2人の中学生は「破戒」に大感激。図々しくも話を聞きに楽屋まで押しかけたが、今思うと顔から火の出るような思い出となった。

クラス全員総動員総出演で上演した「破戒」は父兄の間でも評判となった。この大それた一事は、私達3人の胸に熱いものとなって残った。

そしてこの戯曲との出会いが3人のその後の人生に大きな影響を残すことになった。

前に記したように、高校は3人別れ別れの進学になったが、海老原君、永井君ともすぐに演劇部に籍を置き、クラブ活動に熱中した。

私は、これも再三書いているように、高校在学中から虜(とりこ)になっていた挿絵画家への道に進むべく小松崎茂先生の内弟子として小松崎家へ住み込むことになった。

立教大学へ進んだ海老原君の所へは、九段の暁星高校からの入学生、石浜朗君が加わった。

石浜朗―若い人は御存知の人も少ないと思う。

川端康成の「伊豆の踊子」は、多くの女優により、映画も数多く制作されているが、戦後版の「伊豆の踊子」第一号は美空ひばり主演のものだった。その映画で共演したのが石浜朗君だった。

実は最近この映画を見る機会に恵まれたが、今更のように石浜朗君の美青年振りを再認識した。石浜朗君は小学校から高校を通じて暁星に学び、立教大学へ進んだが、暁星高校一年在学中の昭和26年2月、松竹映画「少年期」の主役の少年募集に応じ、応募者1500人の中から選ばれてこの映画に主演した。

原作は前年出版されベストセラーになっていた児童心理学者・波多野勤子(いそこ)の『少年期―母と子の四年間の記録』(光文社)で、監督は木下恵介。戦争末期から終戦にかけて東京から疎開先で苦難の生活を送った一家を、主として中学生の子と母とのエピソードを通して描いた作品で、母が田村秋子、父が笠智衆、子が石浜朗という配役だった。

石浜君はその後映画俳優として数々の映画に出演。先に記した美空ひばりと共演した「伊豆の踊子」のまぶしい程の美少年を演じたのが昭和29年のことだった。当時の立教大学では、石浜朗が入学して、演劇部へ籍を置いたということで女性の入部希望者がかなり多く殺到したようにも聞いている。もっとも昨今の様子と違って、当時は女子大生そのものの数も極端に少なかったが…。

さて私の方は、小松崎先生宅へ書生として住み込んでいたが、偶然の機会で、右肺尖部に10円玉ほどの浸潤が見つかり、少し静養することになった。想像を絶し、今や伝説化されている小松崎家での徹夜徹夜の生活による過労が原因だった。

病気という程ではなかったが、小松崎先生はすっかり動顛し、「俺の責任だ! 大事にしてくれ」と言って、無理矢理の静養に入らされた。私はこれ幸いと、立教の海老原君、明大の永井君に頼まれるままに、オブザーバーとして演劇部活動に加わり、色々な作品のポスター、チラシ、プログラムの表紙からチケットのデザインまで描きまくり、その一方で、浅草通いを再開。映画、演劇、寄席通い……と忙しく楽しい毎日を送った。

自宅で机に向かう当時の筆者の写真▲自宅で机に向かう当時の筆者

学生演劇に熱中した当時の仲間達の多くは卒業後放送関係や劇団活動で活躍したが、気がつけば皆定年も過ぎ、大老人になっている。文化放送のアナウンサーとして「お昼の歌謡曲」や「お昼の演芸」で活躍した佐藤也寸志君も、人事部長を経て定年。今は車椅子生活になっているとか。文学座アトリエで活躍した吉兼保君も、若い頃美男子だったが、何年か前に他界してしまった。現在も親しく交際している斎藤伊和男君も先年交通事故に遭い足が不自由になってしまった。奥様の美代子さんは有名な銀座の天ぷら屋「天一」のお嬢さんで、独身時代から私もこの御夫妻には随分とお世話になっている。行方不明になっている人も居るが、総じてみんな八十歳過ぎの御老人になってしまった。立教の海老原君は卒業後、草創期の劇団四季に入団したが、これからという時に昭和37年5月3日の常磐線三河島事故で若い命を散らしてしまった。海老原君との交流は本シリーズの始めの頃に詳述している。

明大の永井君は卒業後塗料会社を興し、また柏市の市議となり7期もの長きを務めた。

これら、若き日演劇に情熱を燃やした多くの仲間達のその後の生活ぶりを追跡したら、それだけで一冊の本になってしまう。

先頃劇団四季創立メンバーの一人日下武史さんが静養先のスペインで死亡したという記事に接した。三河島事故で亡くなった海老原君の実家は、柏駅前通りの恵比屋という古い旅館だった。俳優の山村総さんなども利根川へ釣に来る度、その処点として彼の家を利用していたが、スペインで不帰の人となった若き日の日下さんも何回か泊まりに来て、海老原君と私、そして日下さんの3人でザコ寝をし、朝まで語り明かしたこともあった。

それにしてもみんな老いた。そして、居なくなった。

「今思えば皆遠火事のごとくなり」(能村登四郎)

 

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