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新春特別編

失われた風景を訪ねて

 

え 小松崎 茂

文 根本 圭助

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

おばけ煙突

旧臘(きゅうろう)17日、編集の戸田さんの発案で、私の師小松崎茂先生がかつて昭和11年頃にスケッチして歩いた場所を辿ってみようということになった。早朝より千住のおばけ煙突跡を振り出しに、浅草、銀座と二人で弥次喜多よろしく歩きまわった。これは、その折のごくごく一部を記したものである。

さて千住の四本煙突―本来は東京電灯会社(現在の東京電力)の火力発電所のボイラー用の煙突として大正15年に誕生した。当時の金額で1千5百万円をかけ、石川島製作所で製造された。発電量7万5千キロワット、日本最大の火力発電所の象徴であった。

鋼板製で内部は耐火煉瓦巻、高さ83・82メートル、外径頂部4・8メートル、底部6・40メートル。重量、鋼板166トン、煉瓦456トン、計622トンを要した。

この煙突は望見する角度により、その重なり具合で、4本から、3、2、1本と見えることから、『おばけ煙突』の愛称で長く下町のシンボルとして多くの人に愛された。

特に地元の人々にとって、この四本煙突は朝に夕に眼をあげれば、必ずそこに屹立(きつりつ)しているという一つの定着した風景だった。

戦後、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」(昭・28)でこの煙突はますます有名になった。椎名麟三の小説「無邪気な人々」を映画化したもので、この映画により『おばけ煙突』は広く全国的にも知られるようになった。因みにこの映画は昭和28年のベルリン映画祭に出品され、第3位を獲得している。

この最新型発電所も老朽化が進み、時流には勝てず、昭和39年廃止となり、その姿を下町の空から消し去ってしまった。近くの元宿小学校の校庭に煙突を使った遊具があったはずだが、行ってみると足立区立千寿双葉小学校となっていた。後で区に聞いたところ、元宿小学校は統廃合で千寿双葉小学校となり、さらに千寿双葉小学校も最近、近くの学校と合併して移転したのだという。今は人気のない校舎と、校庭には煙突の銅板で作った半月形の遊具が残されていた。敷地はすでに帝京科学大学に売却されているという。小学校の校庭に残る四本煙突の遺物は、長く保存する―ということの条件付き売却だったと聞く。

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おばけ煙突

▲下町のシンボルだった「おばけ煙突」

 

煙突があった辺りには小学校の体育館の空色の屋根が見える

▲煙突があった辺りには小学校の体育館の空色の屋根が見える

 

小学校の遊具となった「おばけ煙突」

▲小学校の遊具となった「おばけ煙突」

 

吾妻橋ポンポン蒸気船乗り場

▲吾妻橋ポンポン蒸気船乗り場

 

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浅 草

仲見世から観音様までは人、人、人で、特にこの日は恒例の羽子板市の初日だったので常にも増して賑わいを見せていた。

かつては、この人の流れがそのまま六区の興行街へと流れていたのに、今はそのまま逆流するか一部新仲見世方面へ流れるのみになってしまった。

広い境内は何年も前にきちんと区画整理が終わり整然となってはいるが、綺麗になり過ぎた分、何か物足りない感じがする。鳩の姿が少ない。寺男の話では、鳩は今や害鳥となったそうで、当然餌用の『豆売り』も姿を消した。逆に「鳩にエサをやらないでください」という立て札が目に入る。

本堂前には、東くめ作詞・滝廉太郎作曲の「鳩ぽっぽ」の碑が立っている。ドバトの声をポッポと聞く習慣はこの歌からはじまり、「鳩ぽっぽ」という単語もこれから生まれたと聞いているが、境内から鳩の姿は確実に減っているようだ。

御存知のように、昭和20年3月10日の東京大空襲により浅草寺は、本堂、仁王門、五重塔他を焼失。本堂正面から右手に隣接する浅草神社(三社さま)、左手の淡島堂は焼失を免れた。浅草っ子の心意気とでもいうか焼失の1か月後には早くも再建の話が持ちあがり、当時台東区北清島町で強制疎開のため取りこわされた法善寺の庫裡の古い木材を譲り受け、暫定用の仮本堂として建築されたという。

東京大空襲で同様に家を失い、柏へ疎開した私にとって、東京が恋しく、浅草が恋しく、戦後、焦土の中の浅草へやっとの思いで立った時は、この仮本堂の姿が温かく心に染みた(昭和20年10月完成。11月18日に落慶法要が営まれている)。

今の立派な本堂は昭和26年に着手され、同33年10月17日に落成した。今から思うと浅草−特に六区の繁栄はこの新本堂落成の頃が頂点だったように思われる。そして 私は鉄骨・鉄筋コンクリートの現在の本堂にいまだに馴染みきれていない。その分、仮本堂時代がなつかしくてたまらない。林芙美子の作品に「下町(ダウンタウン)」という小説があるが、戦後の空気が色濃く伝わってくる短編で、夫がシベリアに抑留中で子どもを抱え、お茶を行商する『りよ』という女主人公が、ふとしたことで知り合った男と、ある日浅草へ出かけるという場面がある。雨に遭い、仕方なく汚い宿に入って…ということになるが、「浅草は朱塗りの観音様も小さくてつまらなかった…」というような描写があった。これは仮本堂時代のことで、戦後の荒んだ侘びしくも切ない息遣いがずきゅんと胸にくる短編である。

私にとっても忘れられない仮本堂だが、今は、焼失を免れた淡島堂が老朽化したので、それに代わり、花やしき通りに近い公園のいちばん奥に移された淡島堂がこの仮本堂の変身した姿である。−そして六区。ここはもう何も書く気になれない。これほど淋しくなった通りから、往時の賑わいは偲びようもない。大衆演劇の殿堂として再出発した大勝館は現在工事中だった。

たった一軒フランス座跡の浅草演芸ホールだけが折からのお笑いブームとあって呼び込みが賑やかに声を出していた。出来得るならば六区には作ってほしくなかった場外馬券売場や老人ホーム。かつての松竹演芸場や、国際通りに面した松竹座などをすっぽり呑みこんでしまった『ロックスビル』。中は割に閑散としていた。ストリップのロック座は存在するが、踊り子たちは、今はどんな踊りを見せているのだろうか。すし屋横町もすし屋は2、3軒になってしまった。

再び雷門近くへ戻るとここだけは、人、人である。水上バスの乗り場も大きく変わったし、吾妻橋を渡った対岸の光景は、墨田区役所などのビルで昔日の俤(おもかげ)はない。空がせまくなってしまったように感じる。一寸感心したのは何年か前まで隅田川の防波堤沿いにびっしり並んだホームレスの青テントが一掃されていたことだ。

それにしても浅草は外国人観光客を多く見かける。昔と違って私たちの方も外国人に何の違和感も感じないので、楽しそうな笑顔を見るとこちらも嬉しくなってしまう。

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現在の吾妻橋水上バス乗り場

▲現在の吾妻橋水上バス乗り場

 

戦前の吾妻橋。昔は空が広かった

▲戦前の吾妻橋。昔は空が広かった

 

行き交う人の風情が違う戦前の浅草寺仁王門

▲現在の吾妻橋(墨田区側)より浅草方面を望む

 

行き交う人の風情が違う戦前の浅草寺仁王門

▲行き交う人の風情が違う戦前の浅草寺仁王門

 

戦後再建された現在の浅草寺宝蔵門(旧仁王門)

▲戦後再建された現在の浅草寺宝蔵門(旧仁王門)

 

昔は浅草寺本堂前にいつも出ていた鳩の豆売り

▲昔は浅草寺本堂前にいつも出ていた鳩の豆売り

 

スペース スペース 本堂前。今は豆売りの姿が消え、外国人観光客が目立つ

▲本堂前。今は豆売りの姿が消え、外国人観光客が目立つ

戦後すぐの仲見世通り。奥に仮本堂が見える

▲戦後すぐの仲見世通り。奥に仮本堂が見える

 

  現在淡島堂として使われているかつての仮本堂と筆者(左)

▲戦後すぐの仲見世通り。奥に仮本堂が見える

 

賑やかだった戦前の浅草六区

▲賑やかだった戦前の浅草六区

 

  すっかり人の数も少なくなった現在の浅草六区

▲すっかり人の数も少なくなった現在の浅草六区

 

瓢箪池から見た万成座(左)と花月劇場。池の跡にはビルが建ち、同じ場所からの撮影はできなかった

▲瓢箪池から見た万成座(左)と花月劇場。池の跡にはビルが建ち、同じ場所からの撮影はできなかった

 

銀 座

田原町から地下鉄で銀座へ。東京メトロ銀座線「田原町」という駅はあるが、町は現在存在していない。このように町の姿も大きく変わったが、地図から消えてしまった町も少なくない。昭和11年、小松崎茂21歳。南千住の自宅から毎日のように自転車でスケッチに出かけたという。陸軍の皇道派将校たちが起こしたクーデター計画の二・二六事件が世間を騒然とさせ、阿部定事件は、その猟奇性ゆえに世間の耳目をひき、街には「東京ラプソディ」「ああそれなのに」「人妻椿」などの歌が流れていた頃である。

当時挿絵界の超売れっ子画家だった小林秀恒に師事し、師の挿絵の資料用に依頼されて始めたというこのスケッチは全部で7冊。300枚に及ぶ。銀座の商店街、銀座裏のバー、クラブ、料亭など。数寄屋橋周辺。日劇は劇場の周囲だけでなく地下の売店まで克明に描かれていた。しかし、カメラを向けようにも、まったく様変わりしてしまい、対比しようもなかった。「君の名は」ではないが、数寄屋橋の上から、淀んだ川面に思いを映したなんてことも、みいんな夢となった。師の小林秀恒宅に保存されていて戦災を免れたスケッチは、平成7年1月末の失火による小松崎家全焼の際、灰燼に帰してしまった。

今回の企画では、そのほんの一部きり掲載できないことが残念でたまらない。

現在六本木ヒルズ森タワー52階の森アーツギャラリーで12月6日から1月20日まで「ウルトラマン大博覧会・天空大作戦」という展覧会が開かれている。私の所蔵するウルトラマン関係のイラストが50点程展示されている。12月5日夜開かれた内覧会とレセプションに招かれ、私は、久々に眼下に広がる夜の東京の光の海を見た。

私たちの世代は因果なもので、子どもの目ながらも大空襲と焦土の東京を見ているので、どうしてもその記憶と現在とを重ね合わせてしまう。

老人の目から見ると、懐かしい街々の変貌は華やかになればなるほどなぜか淋し気に目に映る。

特に浅草などは、慶応元年に焼失して95年を経た昭和35年5月に再建された『雷門』をはじめ、立派な宝蔵門(旧仁王門)、五重塔そして鉄筋コンクリート造りの観音本堂と、堂宇は往時をしのいでいる。 しかし、街とともに人も変わったのだろうか。『人情の下町』の謳い文句はあっても、かつての浅草の体臭みたいなものがなかなか伝わって来ない。六区はなおさらである。

二人歩きの途中、電気ブランで有名な神谷バーでひと休みした。いける口の戸田さんは電気ブランとビール。まったくアルコールが駄目な私は、『おでん』をとって二人でつまんだ。色んな事が頭に去来する。『人情の亡(ほろ)びしおでん煮えにけり』。万太郎だったか、こんな句がふと頭を過ぎった。 (敬称略)

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スペース 戦前の銀座4丁目。左が服部時計店、現在の和光

▲戦前の銀座4丁目。左が服部時計店、現在の和光

 

現在の銀座4丁目交差点

▲現在の銀座4丁目交差点

 

服部時計店(右側)より交差点を望む

▲服部時計店(右側)より交差点を望む

 

地下鉄入り口(左)、服部時計店(右)の位置は変わらないが前方の景色が全く違う

▲地下鉄入り口(左)、服部時計店(右)の位置は変わらないが前方の景色が全く違う