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2008年(平成20年)4月27日《第670号》

今月から始まった後期高齢者医療制度。年金問題がまだゴタゴタしている時に「年金からの天引き」が始まったことで、高齢者の不信感をあおったようだ▼年金の管理はあきれるほどずさんにやってきたのに、取るときにはきっちり天引きなのか、というやるせなさ。私の両親はまだ75歳にはなっていないが、年金だけが生活の糧だ。息子としても無関心ではいられない▼この制度は5年前に小泉政権下で決まったもの。テレビでは当時の与党の強行採決の様子が何度も流されているが、政治家も国民も、そしてマスコミも、ずっと忘れていた。急に出てきた印象が、混乱に拍車をかけている▼周知徹底をしなかった行政。マスコミも追求が甘かった。強行採決に加担した与党議員までが「当時は制度の中身がよく分からなかった」「問題があり、変えるべき」などと話しているのを見ると、怒りを覚える。いやしくも国会議員が、分からないことに賛成するな! と。ここぞとばかりに「廃止」を叫ぶ野党議員も、5年間なにをしてきたのだろう▼そして、その議員たちを選んだ私たち国民はどうなのか。「郵政」だけで選挙をするには、やはり無理があった。一過性の雰囲気に飲み込まれず、厳しい目を持つことが国民にも求められる。

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2008年(平成20年)4月13日《第669号》

この欄にも何度か登場した黒猫のクロが亡くなった▼先月11日、ワクチン接種の際に腎臓が悪いことが分かった。さらに顔にできた腫瘍が追い打ちをかけた。手術をしたが危険な状態。「楽にしてあげるという考え方もある」と医師から告げられたが決断できなかった。私の目標が「病気を治す」から「最期は家でみる。その瞬間に必ずクロのそばにいる」に変わっていった▼4日間ほとんど寝ずにクロをみていた。もっと早く病気に気づけば…。安楽死の決断ができないのは私のエゴなのか。いろんな想いが交差した。昼には庭に出してあげ、クロが自分の家のように毎日通っていた隣のおばさんのところにも連れていった▼30日早朝、容体が悪化。私は迷った挙げ句、病院に連れていったが、なにもできず戻ってきた。帰りのタクシーの中で、クロは人の赤ちゃんのように白いタオルに包まれ、私の腕の中にあった。うつろな目に満開の桜は映っただろうか▼午後2時過ぎ、息が荒くなり、やがて静かになった。急に雨が降りだし、翌日の葬儀が終わるまで降り続いた。火葬の熱で青空が揺れている。クロが天に昇っていく…。帰りの車中、クロにそっくりな雲が浮かんでいることに、葬儀に参列してくれた隣のおばさんが気づいた。

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2008年(平成20年)3月23日《第668号》

先日HIV(エイズウイルス)抗体検査を受けた。保健所で、無料、匿名で受けられる▼3度目だが、今回はなかなか予約が取れない。「肝炎の検査の人が多くて…」と言われた。薬害肝炎訴訟が大きく報道されたためだろう。一度の採血で梅毒、クラミジア、B・C型肝炎も検査できる▼最初はエイズが「死病」ではなくなったことで検査を受ける人が増えたのかと思った。最近は良い薬が開発され、感染してもウイルスの増殖を抑え、エイズの発症を防ぐことができる。ガンのように早期治療で長生きできるようになった▼81年に米国で最初のエイズ患者が出た頃は同性愛者の病気だと思われていた。私は高校生で、英二という友だちにすぐにエイズというあだ名がついた。みんな無邪気だった。大学に入る頃、異性との性交渉でも感染することが分かり、みんな真っ青になった。遊びたい盛りで、出ばなをくじかれた。差別と偏見も伴う病気で、こういうことを書くのにも勇気がいる▼薬害エイズのように薬や輸血から感染することもある。大きな手術を受けたことがある私は、最初は薬害の方を心配した▼検査は気持ちに余裕がある時に受ける方がいい。感染からウイルスが検出されるようになるには約3か月かかる。採血から結果までは2週間(当日結果が分かる検査もある)。不安を抱えながらだと長く辛い時間になる。感染する確率は低いと知っていても、当人にすれば白か黒しかない▼果して結果は―陰性だった。可能性だけは誰にでもある。あなたも一度、いかがでしょう。

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2008年(平成20年)3月9日《第667号》

民放の喧騒を離れ時々NHK教育テレビを見る。「ハートをつなごう」という番組があり、石田衣良さんやソニンさんが出ている。以前は障害者について取り上げていたが、今回、初めて「貧困」をテーマにしたという▼お笑いコンビ麒麟の田村裕さんが「ホームレス中学生」という本を書いてベストセラーになったが、この番組には10代や20代のホームレスが出てくる。18歳でホームレスになり、ある団体の助けで生活保護を受けられるようになった少年の「向こうに行くのは簡単だけど、こっちに来るのは大変」という言葉が心に残っている▼住所がないと仕事も見つからない。今のところ平穏に見える私たちの暮らしの向こうには真っ暗な闇がポッカリ穴を空けていて、そこに落ちてしまうと、どうあがいてもはい上がれない。背筋が寒くなるようなイメージが頭に浮かぶ。日本はいつの間にこんな国になったのだろう▼あるニュース番組でたまたま見た映像。道路特定財源維持を訴える宮崎県の集会で「妊婦が救急車で搬送中にお産をした。もし高速道路があれば」と女性が話していた。なるほど、地方には道路が必要…。いや、高速を使わないと病院に行けないこと、近くに病院がないことのほうが問題なんじゃないの?▼国土交通省の役人が何十台ものマッサージチェアーを購入していたり、同省の天下り財団が1人1泊8〜9万円という大名旅行を毎年繰り返していたり、とむかっ腹が立つニュースが続く。道路特定財源は一般財源化し、福祉や医療に使うべきだと思う。

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2008年(平成20年)2月24日《第666号》

バイクが故障したのをきっかけに、取材に自転車で行くようになった。ジムにも通っていたが3か月と続かず、運動不足解消をかねてのこと。ほとんどの現場には30分以内に着くので、支障はない。環境にも優しい。私のように自転車を活用する中高年が増えていると聞く▼いつも乗っていて気になるのが、車道を走るべきか、歩道を走るべきか、ということ。ある情報番組で自転車の危険運転を取り上げ、コメンテーターが「自転車は歩道を走ってはダメなのに」と上気した顔で話しているのを見た▼調べてみると、道路交通法では1970年までは歩道を走行することは認められていなかったが、改正で公安委員会が認めた区間の歩道は走行できるようになったらしい。その場合、車道寄りを徐行し、歩行者が優先だ▼が、自転車の走行を認める歩道の道路標識を市内で見たことがない(見落としてるだけ?)。車道を走っていると、後ろから来る車のイライラを感じる。「オイオイおとなしく歩道を走ってくれよ」というドライバーの声が聞こえてきそうだ。交通量の多い国道6号線などは恐ろしくて走ることができない▼前述の情報はネット上の事典「ウィキペディア」で調べた。読者が自由に書き込むことができるので、参考程度に使うべきとされる。国土交通省の天下り団体が、この「ウィキ」の情報などを使って作成した報告書に1億円の道路特定財源が遣われたことが問題になっている▼そんな無駄遣いをするくらいなら、安全な歩道や自転車専用道路の整備に遣ってほしい。

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2008年(平成20年)2月10日《第665号》

中国製の毒入り冷凍ギョーザ事件。私はギョーザはあまり食べないが、気になって、いつも食べている、ひきわり納豆のパッケージを見てみた▼大豆は「アメリカまたはカナダ」「遺伝子組み換えでない」とある。とりあえず安心。が、中国産でなければ安全というわけでもない。乾燥わかめを70g入り中国産から、30g入り国産にかえた。同じメーカーから出ていて量は半分以下なのに値段はぐっと高くなる。中国産全てが悪いわけでもないのに、自分の行動が滑稽に思える。根拠のない不安と安心。そういえば、スーパーで中国産の生野菜を最近は見なくなった▼1960年代には70%以上だった日本の食料自給率は今や39%。戦国時代、豊臣秀吉が最も得意としたのが兵糧攻めだった。敵を城に閉じ込め包囲し、食料が無くなって降伏してくるのを待つ。国防にとって最も大切なのは食料の確保だと思うが、政治家も国民もピンときていない感じがする▼65年に生まれた私は小学生のころ「3ちゃん農業」という言葉を担任からよく聞いた。17人のクラスメイトのほとんどは農家で、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの3人が担い手。とおちゃんはサラリーマンか、出稼ぎに出ている。農業だけでは食べられなくなっていたのだ。都会に人が溢れているころ、田舎では過疎化がものすごい勢いで進んでいた▼今こそ国は、IターンやUターンで農業を始める人を支援するなどして、農業人口を増やす政策をとるべきでは。国民も高くても安全な食料を望むと思うが。

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2008年(平成20年)1月27日《第664号》

ガソリンは安くなるのか。ガソリン税の暫定税率延長をめぐって国会では自民と民主の綱引きが続いている。「ガソリン代」か「道路」か。個人的には、ガソリンが安くなったほうがいいと思う。世論調査でも多数が暫定税率廃止に賛成だ▼しかし、地方自治体は反発を強めている。危険な道路の補修は別として、十分便利になったと思える現代の日本で、新たな道路がそんなに必要だろうか。最近、実家の近くの道がずいぶん良くなっているという。「1日に何台も通らないのにねぇ」と母▼私の田舎は九州山地の真ん中にある人口2万6000人の小さな市だ。想像していただきたい。生まれたばかりの赤ちゃんから100歳近くの老人まで、全ての市民が東京ドームに集結しても、空席が目立つという規模の人口が、久住や阿蘇といった名峰に囲まれた広大な市域に点在しているのだ▼私が小学校に通った道も良くなっていると聞いて、また驚いた。松戸市の統廃合とは違って文字通り子どもがいなくなって廃校になった小学校に行く道だ。どこからお金が出ているのだろう。財政は大丈夫なのか。さらに、高速道路も通ることになり、近く住民説明会があるという。建設予定地には、農業のための石造りの美しい水道橋がある▼道路建設は観光誘致、工場誘致のためだろうか。あるいは工事のための工事か。子どものころ、河川改修で緑の岸辺が全てコンクリートに変わった時、とても残念に思った。田舎の最大の財産は、美しいそのままの風景だ、と離れてみて改めて思うのだが。

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2008年(平成20年)1月13日《第662・663号》

8月の猛暑。秋刀魚が秋の声を聞く前に大漁になり、日本近海に熱帯の魚が。米どころの東北より北海道の米がおいしくなった。紅葉が1か月も遅れ、11月になっても街路樹は青々としていた。昨年は地球温暖化を肌で感じた年だった▼ふと倉本聡の「ニングル」(理論社)と宮崎駿の「風の谷のナウシカ」(徳間書店)という80年代に発行された2つの作品が頭に浮ぶ。ニングルは北海道富良野の麓郷(ろくごう)の森に住む小人。森と共に生きていてその寿命は樹木のように長い。だから自然と対立せずに森と同じ時間の流れで物事を考えることができる。ナウシカに出てくる腐海の森は汚染された地球をゆっくりと浄化している。その森を守っているのは王蟲(オーム)や巨大な虫たち。しかし、人間は森の毒と虫を恐れ、焼き払おうとする。さらに、少ない土地を争って戦争も▼日本人の寿命は昔で50年、今は70〜80年。短い人生の中で目に見える成果を求めるから、何百年、何千年単位で変化していく自然が理解できない。国際会議では各国の利害が対立し、抜本的な対策はとられていない。百年後の子孫たちが大変な目に遭うことが分かっていても、目の前の利益が大切なのだ▼古寺巡礼の取材で市内を歩いた。10年前に比べても緑が減ったと感じる。この町は21世紀に入っても開発、開発なのだ。ちょっとぐらい松戸の緑が減っても地球全体には影響ない、と思うかもしれない。でも、その「ちょっとぐらい」の積み重ねが、今の地球温暖化を招いたのではないだろうか。

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2007年(平成19年)12月9日《第661号》

12年前のねずみ年、1996年のバックナンバーをペラペラとめくってみる。5月、市内に住む5歳の少年が心臓移植のために渡米し、手術を受ける費用約7千万円を目標に募金を呼びかけている▼当時はまだあまり例のないこと。地元の少年サッカーチームや父親の同僚などが支援し、秋には渡米、冬に手術を受けることができた。しかし、移植された心臓がうまく機能せず、ほどなく再移植。補助機械の副作用で胆のうが壊死(えし)し、胆のうの摘出手術も行った▼2回目の心臓移植はうまくいき、少年は順調に回復。翌97年8月に帰国することができた。この間、少年の体力があるうちにドナーが見つかってほしい、と願う反面、それは誰かの幼い命が失われる瞬間を待っていることになるのか、と複雑な想いがしたのを覚えている▼2001年3月、500号の記念企画で、10歳、小学4年生になった少年の様子をお母さんに電話でうかがった。東京の専門医の近くに引っ越していた。臓器移植を受けた子どもは、身体のケアはもちろんのこと、心のケアが大切なのだという▼命の大切さが実感できない――。幼いころに想像を絶する苦痛を味わったために、心にも大きな傷が残っている。大人なら自分の状況を理解することもできる。しかし幼い子どもには、いつ終わるとも知れない苦痛は、拷問(ごうもん)のように感じたのかもしれない▼みんなの善意と支援で助かった命なんだから…、と考えるのは大人のエゴかもしれない。その痛みは本人にしか分からないのだから。

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2007年(平成19年)11月25日《第660号》

松戸に越してきた12年前。今度は猫が飼える部屋と決めていたので、部屋探しはむしろ簡単だった。不動産屋に入るや「猫が…」と話すと、「ありません」と即答。あれやこれやと紹介されて時間をつぶすことがない。4、5軒目に入った不動産屋で「あります」と2軒を紹介された▼図面で間取りを見て、そのうちの1軒に決めた。木造の古いアパートは2階建てで、中で階段でつながっている。1階も2階も10畳くらいある。東京で手を伸ばせば何かにぶつかりそうな狭いアパートに住んでいたので、その広さがうれしかった。5万円を切る家賃も魅力。しかも、猫が飼える▼猫は「里親募集」の読者から譲っていただいた。生後3か月の三毛猫。目鼻立ちがきれいな美人だ。人見知りが激しく私にしか慣れないので、来客の評判はよくなかった▼そんな一人と一匹の生活に黒猫が入ってきたのは2年前。「オレはここに住むんだぁ」という感じで勝手に2階の窓を手(前足)で開けて入ってきた。こちらは誰にでもなつき、みんなに可愛がられる八方美人。隣の年配の夫婦にも可愛がられ、エサまでもらい、お隣で昼寝までしている▼仕事で帰りが遅くなった日のこと。黒がしつこく鳴くので、隣の奥さんがエサを皿に入れると、見ているだけで食べない。ニャアと声を上げて三毛を呼んでいる様子。奥さんが身を隠すと、三毛が現れてエサを食べたという▼「黒ちゃんは優しいねぇ」と奥さん。「オマエいいとこあるなぁ」と、いつもは冴えない黒の顔が、妙に凛々(りり)しく見えた。

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2007年(平成19年)11月11日《第659号》

二人ともしんどかった…。「空白の一日」から28年。清酒・黄桜のコマーシャルで、江川卓氏と小林繁氏が当時について語っている▼「怪物」と呼ばれた江川氏は2度のドラフト会議で1位指名を受けながら、意中の球団ではなかったため、入団を拒否。1978年11月のドラフト会議前日、野球協約の盲点をついた「空白の一日」に巨人と契約をかわした。だが、球界やマスコミ、世間から批判が続出。すったもんだの末、巨人のエースだった小林氏と、1位指名を受け一瞬だけ阪神の選手となった江川氏との間に開幕前にトレードが成立した▼悲劇の主人公となった小林氏はこの年、22勝で最多賞と2度目の沢村賞を受賞。特に巨人戦には強く、8勝負けなしと意地を見せた。一方、江川氏には悪役のイメージがついてしまった▼巨人に「そこまでしても入りたい」時代があったのだ。江川氏だけでなく、桑田真澄氏や元木大介氏などの入団でも様々なことがあった。今年のドラフトで目玉だった中田翔選手(大阪桐蔭→北海道日本ハム)、佐藤由規選手(仙台育英→東京ヤクルト)などが、満面の笑みを見せたこととは対照的だ▼巨人戦の視聴率は下がったが、北海道や福岡など、地域に密着した球団の人気は高く、地元での視聴率も高い。ファンの一斉ジャンプで揺れる札幌ドームの映像を見ながら、プロ野球は良い方向に進んでいると実感する▼西武も「埼玉西武ライオンズ」に改称するという。将来は各球団名から企業名もなくして、よりフランチャイズ制が確立されれば、と思う。

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2007年(平成19年)10月28日《第658号》

昨年5月14日のこの欄で「見るのが辛い」と書いた。亀田兄弟のことである。直後に「あんなこと書いて大丈夫なのか?」と父が心配をして電話をくれた。それくらい亀田一家には追い風が吹いていた▼当時から亀田一家の言動はひどいものだったのに、こどもの日の試合には環境大臣だった小池百合子氏も応援に。後に兄・興毅選手は環境省が推進するレジ袋削減キャンペーンのキャラクターに抜擢された。コンビニなどで、興毅選手の大きなポスターを目にした方もいるだろう。契約料がいくらなのか、何枚刷ったのかは知らないが、少なからず私たちの税金が使われたわけだ。国がお墨付きを与えたのだ。勘違いするのも無理はない▼が、昨年8月のランダエタ戦での疑惑の判定をきっかけに、風は一気に逆風へと転じた。そして、先日の弟・大毅選手の世界戦での反則行為と、それを指示した父・史郎氏、興毅選手への批判で、逆風は決定的となった。問題は亀田一家だけにあるのではない。「金のなる木」として、その行為を助長させたTBSと協栄ジムの責任も大きい▼26日の興毅選手の謝罪会見、史郎氏のボクシング界からの事実上の引退を経て、この問題はもういいかな、という気もする。この問題では、早くから元世界チャンピオンの具志堅用高さんや、ガッツ石松さん、漫画家のやくみつるさんらが、痛烈な批判をしてきた。特にやくさんと史郎氏とのガチンコ対決はすごかった。ふと、ナンシー関さんが生きていたら、この問題をどう斬っただろうか、と考えた。

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2007年(平成19年)10月14日《第657号》

イラン旅行中の大学生が武装グループに誘拐されたという事件。無謀だ、国に迷惑をかけて、とまたぞろ批判の声も出てきそうだが、自分のことを振り返ると、彼のことを責められないなぁ、と思う▼17年前、友人3人とギリシャ、スペイン、モロッコを旅した。型にはまった旅行が嫌で、行き帰りの航空券以外は何も予約せず、ルートも泊まる所も現地に着いてから決める、という旅だった。スペインから北アフリカのモロッコには船で渡ることにした。列車を乗り継いで、ある港町に着くと、船の切符売り場が人でごったがえしている。両国の関係が悪く、船が出ないというのだ。帰りの飛行機はモロッコから。どうしても渡航しなければならない▼しかたなく、首都マドリード近くの空港まで戻り、飛行機で行くことに。バスは深夜にマドリードに着いたが、このまま空港に行くのかと思いきや、市街を通りすぎ、郊外へ。大変な事態なのに疲れと眠さで頭が回らない。ボーッと街灯ひとつない暗い車窓を眺めていた▼なんとか気を取り直し、運転手に空港に行きたい旨を伝えると、それを見ていたほかの乗客たちが、なにやら騒ぎだした。言葉は分からないが、どうやら、私たちのことを心配してくれているようなのだ。困った運転手は、ドライブインにバスを止め、電話で彼の友人を呼び、私たちを空港まで送るように頼んでくれた▼大きなバックパックを背にバスを降りるとき、乗客たちが心配そうに私たちの姿を目で追っていた。あのやさしい瞳を今でも懐かしく思い出す。

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2007年(平成19年)9月23日《第656号》

「国の一大事ですから」。猪口邦子元少子化・男女共同参画担当大臣は、興奮気味に取り囲む記者団に話した▼国会で所信表明演説をした安倍晋三首相が、2日後の代表質問の直前に辞意を表明した。確かに、国の一大事には違いないが、猪口さんら「小泉チルドレン」と呼ばれる人たちが本当に心配していたのは、国よりも次の総選挙で自分たちが当選できるかどうか、なのではないだろうか▼小泉政権の象徴的存在だった小池百合子元防衛大臣を筆頭に、小泉純一郎元首相の再登板を働きかけた。「小泉人気」というバブルの中で生まれた人たちだ。バブルの再来がなければ、次回も当選することは難しい。90年代にバブル経済が崩壊した時、しばらくの間は、「次の春には、いや秋には(経済が回復するだろう)」と期待する人たちが何人もいたのを思い出す。結局、バブルの再来はなかった。小泉さんは「100%ない」と早々と再登板の意思がないことを明言し、チルドレンたちが期待した「小泉バブル」の再来もなかった▼それにしても、現状では自民党の総裁=首相なのだから、やはり大変なことなのだろう。しかし、どこか冷めた目で見てしまうのは、これが自民党という一政党のコップの中の嵐だからだ。年金やテロ特措法の延長問題など、議論すべき問題が山積している国会は、もう2週間も開店休業状態▼きょう23日にやっと自民党総裁が選出される。個人的には、福田康夫さんが右に寄りすぎた小泉・安倍路線を修正してくれることを期待している。

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2007年(平成19年)9月9日《第655号》

「カネの自民に不倫の民主」。テレビを見ていたら、あるコメンテーターがこんなことを言っていた▼「うまいなぁ」と思わずニヤけたが、笑ってもいられない。どちらもよろしくないことには変わりはないが、やはり許せないのはカネのほうでしょう。道徳的には、もちろん不倫はいけないことだけれど、私たちに実害があるわけではない▼「カネの自民」のカネとは税金のことである。注目された内閣改造からわずか8日。遠藤武彦農水大臣が、自ら組合長を務めていた農業共済組合が国から補助金を不正受給していた問題の責任をとって辞任した。同じ日には、坂本由紀子外務政務官も、支部長を務める自民党支部が政治活動費を多重に計上していた問題で辞任した▼さすがにもう打ち止めか? いやまだあるかも、と思っていたら、案の定。あろうことか遠藤氏の後任の若林正俊・新農水大臣が、そして鴨下一郎環境大臣も、なにやら「政治とカネ」の問題で記者に追求されていた(いろいろありすぎて、もう詳細まで覚えていない)。そういえば、冬季五輪のノルディック複合で活躍した荻原健司議員も夜中に記者会見してたなぁ▼政治家だけではない。社会保険庁の職員と地方自治体の職員が、合わせて3億数千万円も保険料を横領していたことが分かった。公(おおやけ)の仕事をしている人たちのモラルってどうなっているのだろう▼ニュースを見るのが好きな私でも、さすがに食傷ぎみ。このウンザリ感の蔓延(まんえん)が、政治への無関心につながらなければよいのだが。

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2007年(平成19年)8月26日《第654号》

猛暑の中自宅謹慎していたのは朝青龍だけではなかった。民主党の「さくらパパ」こと横峯良郎議員も謹慎中だという▼なんでも、愛人の存在とゴルフ賭博の疑惑が22日発売の週刊新潮に載ったのだという。国会議員は公人中の公人。もう一タレントではないのだから、謹慎なんかしてないで、記者会見でも開いてビシッと釈明してもらいたい。民主党も自民党との対応の違いを見せるいい機会だと思うのだが▼まだ事の真相がはっきりしないので、横峯氏を犯人扱いするのは申し訳ないが、最初に思ったことは、もし事実なら、さくらさんがかわいそうだ、ということ。今、本業のゴルフのほうでとても頑張っているのに…。娘の足を引っ張ってどうするのだろう。娘の成功がなければ、彼の人気もなかった。だが、いつの間にかそれが自分の実力だと勘違いしていたところはなかっただろうか▼同じようなことを感じたのは野村サッチーの時。彼女も国会議員に立候補したが、落選。他のタレントとのゴタゴタも絶えなかった。最後は脱税疑惑で消えていった。彼女の名声も夫・野村克也監督の野球人としての長年の努力と功績の上に成り立っているもの。内助の功どころか、「内助の不功」になってしまった▼私が知っているある女性は、親が作った借金を返すために、睡眠時間3時間で昼も夜も働いている。今時こんな娘もいるんだなぁと感心する。不肖の息子である私は、親のやっかいになることはあれ、親に援助を頼まれたことはない。ある意味、これは幸せなことなのかもしれない。

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2007年(平成19年)8月5日《第653号》

 「国民との約束を果たすため」辞任しないのだという。参院選の開票も終わらないうちに、安倍首相は続投を表明した▼それにしても、安倍さんと「約束」したかなぁ、と思う。私としては、今すぐに憲法を変えてほしいなどとは思っていない。約束したなんて勝手に思われては困る。「約束」とは相手との合意があって、初めて成立する行為なのではないだろうか。安倍さんのは、「独りよがり」のように思われる▼「改革の継続」という言葉も、安倍さんはよく使う。「改革」という言葉は、前の小泉首相もよく口にしていた。しかし、結果が良くなれば「改革」だが、悪くなれば「改悪」だ。ただ単に変えるだけでは改革にはならない。結果が見えないだけに、この言葉にもいつもひっかかりを覚える▼1日に作詞家の阿久悠さんが亡くなられた。都はるみさんの「北の宿から」やピンクレディーの「UFO」、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌など数多くのヒット曲を残した。作詞家になる前は広告代理店に勤めていたというから、コピーライターの経験もあるのだろうか。まさに、言葉の魔術師。詞だけ聞いてピンとこなくても、曲に乗せると深い感動を与えるのが音楽。逆に「この詞なら」と言葉を選ぶ作詞家の才能は、天性のものなのだろう▼小学生だった私が唯一名前を知っている作詞家だった。阿久さんに限らず、有名な人が亡くなる度に一つの時代が終わってゆく、歳をとったなぁ、と感じる。こうやって人は、少しずつ老いるための心の準備を始めるのだろうか。

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2007年(平成19年)7月22日《第652号》

帰宅すると、いつものように三毛猫が玄関まで出てきた。私の背後の闇に向かってフーッと威嚇(いかく)している。何かいるのかと思って周りを見たが静かな夜が広がるだけだった。この話を知人の女性にしたところ、猫が私を「何か」から守っているのではないか、という。そして、こんな話をしてくれた▼彼女の祖母は北海道で家族と暮らしていたが、数年前に他界した。おばあちゃんは白い猫をとても可愛がっていた。猫はおばあちゃんにしか慣れず、葬儀の日も、ずっと自分の寝床にこもったままだった。ところが、お棺を外に出そうとしたとき、走ってきてお棺に飛び乗り、そのまま動かなくなった。これではお棺を出せないので、やむなく家人が猫を追い払った。すると、今度は外にある洗濯機の上に座り、じっとこちらを見ている。そして一声、「ニヤァア」と悲しげに鳴いた。この声を聞いた一同は みな涙、涙だったという▼おばあちゃんが亡くなる前の晩、いつもは直ぐに自分の寝床に行く猫が、この日はおばあちゃんの部屋の前から離れず、ドアの前で2時間も鳴いていた。この家では、就寝時は猫をおばあちゃんの部屋に入れないようにしていたという。翌朝、おばあちゃんは眠るように亡くなっていた。あるいは、猫が鳴いていた2時間の間の出来事だったのかもしれない▼葬儀の後、猫は寝床にこもったまま、えさも食べなくなった。3日後にめずらしく彼女の手から少し食べたが、これが最後の食事となった。2週間後、猫も静かに息を引き取ったという。

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2007年(平成19年)7月8日《第651号》

久間章生防衛大臣が原爆投下についての発言で引責辞任した。4日の読売新聞朝刊から発言の要旨を引用する▼「原爆も落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理でしょうがないなと思っているし、それに対してアメリカを恨むつもりもない。勝ち戦と分かっているときに原爆まで使う必要があったのかという思いはいまでもしている。国際情勢や占領状態からすると、そういうことも選択としてはあり得るんだな、ということを頭に入れながら考えないといけない」。先月30日に柏市の麗澤大で行われた講演で語った▼この発言、みなさんはどう感じるだろうか。数年前、広島の原爆慰霊碑の落書きが問題になったことがあった。最近では、日本の核武装という議論を与党の幹部がしていた。戦後60年がたって、どこか原爆は許さないという決意に緩みが出て、今回の発言につながったように思える▼私は原爆投下はアメリカによる人体実験だったのではないか、と思っている。広島は濃縮ウラン型で長崎はプルトニウム型とわざわざ違う種類の爆弾を使った。「終戦を迫る」といっても、広島に8月6日で長崎に9日では、広島の被害を把握し、政府が判断する時間も十分になかったのではないか▼ベトナムのナパーム弾に中東の劣化ウラン弾…。アメリカにとって戦争は今も昔も非人道的新兵器の実験場だった。使われるのがいつも有色人種の国というのも気になる。特に当事者である我が国は、その惨禍を忘れてはいけない。

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