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2009年(平成21年)2月22日《第690号》

次号あたりは選挙について書こうかな―。何度かそう思ったが、こんなに長くその機会が訪れないとは予想もしていなかった▼「投げ出し、投げ出し、しがみつき、ですからね」とある民主党の議員が批判していたが、「郵政選挙」で得た3分の2議席の味が忘れられず、ずるずると来てしまったのだろう▼「小泉の夢よもう一度」と「人気がある」(福田さんはちょっと違うかな?)人を総理にしてみたが、メッキはすぐにはがれた。私は小泉政権には当時から批判的だったが、それでも小泉さんとは役者が違った▼そして中川財務相の「もうろう会見」である。報道によると、お昼にワインをボトルで注文したとか(私も好きだから分かるが、フルボトルはかなりきつい。特に昼酒は酔いがまわる)。本人はカゼ薬、体調のせいにしているが、会見の後、世界遺産のバチカン市内を視察したという(大変なことをしてしまったという自覚が本人にはなかった?)。「百年に一度の経済危機」と口では言いながら、G7に観光気分で出席。チャーター機を使って6千万円の大名旅行である▼アメリカ追従経済の破綻と雇用不安、福祉の切り捨てなど小泉政権の影の部分が浮き彫りになっているが、「3分の2による政権のゆるみ」も大きな影のひとつである。

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2009年(平成21年)2月8日《第689号》

詳細は次号に送るが関さんの森の道路問題は、迂回道路を市道として通すことで市と地権者の関さん姉妹が基本合意し、5日に調印式が行われた。県土地収用委員会への裁決申請の期限が、きょう8日と迫るなか、ぎりぎりの解決だった▼弊紙で昨年末にお伝えした迂回案より、関さん側がさらに譲歩を重ねた案での合意。川井敏久市長と、関美智子さんの会談がうまくいったことで、すんなり事が進むかと思われたが、一度決定した都市計画道路を変更することは、お役所としては難儀だったらしく、決裂し強制収用になるのでは、と内心ヒヤヒヤしながら見守ってきた▼結局「暫定道路」ということで、都市計画の変更はせず、道路を通すことに。計画線は残ったままになるが、地権者も最大限の協力をしただけに、今後、強制収用までして元の計画の道路を建設することは考えられないという。市は収用手続きを中断し、迂回道路の成案が合意された時点で手続きを正式に中止するという▼父・武夫さんの時代から45年の長い道のり。関さん姉妹の表情には疲労の色が濃かった。高い理想と温かい気持ちに多くの支援者が集まった。屋敷林を残すために努力を惜しまない、とインタビューで話した市長。その言葉に嘘はなかった。感謝したい。

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2009年(平成21年)1月25日《第688号》

18歳は大人か。人は何歳から大人になるのか。18歳に選挙権を、という動きがあるためか、成人式前後のテレビで、こんな議論がされていた▼18歳の春。私は東京へ受験に行くために汽車に乗った。ホームまで母が見送りに来てくれた。「ガタン」と汽車が動きはじめると、車窓の母の姿も窓のフレームからゆっくりと外れ、そして消えていった。その瞬間、私は「もうこの人と暮らすことはないんだな…。人間が親と暮らす時間って、意外と短いんだな」と思った▼私の生まれ育った九州の山間部の田舎町は、典型的な過疎の町で、主要産業は農林業。農家でもないわが家では、私が田舎に残って仕事をするということは、考えられなかった▼その後、何度か母が上京したり、私が田舎に帰省したりということはあったが、母がホームで見送る、見送られるということは、ほとんどなかった。これは母の望みで、ホームでの別れは寂しくて、嫌なのだという▼18歳のころの私は、子どもだったと思う。その後もずっと大人になった実感はなかった。今でもよく分からない。でも、あの18歳の春に汽車のなかで考えたことは、一つのきっかけにはなったと思う。人は大人になるのではなく、環境が人を大人にしていくのではないだろうか。

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2009年(平成21年)1月11日《第686・7号》

大晦日のテレビ。派遣労働者が雇用を訴えてデモをしたり、民間が用意した施設で年を越したりと、こんな淋しい映像を年末に見たのは初めてではないだろうか。めでたい、とは素直に思えない年末年始だ▼元旦の早朝からは、初日の出を中継しているテレビ局も。お日様に手を合わせ、良い年を祈る人たち。思えば、太陽に手を合わせるという習慣が残る国というのも珍しい。年末から神社を巡る取材をしていたので、特にそう感じたのかもしれない▼午後3時を回ると、もう夕方の雰囲気。日が短く、取材の日数がかかった。午後に撮影すると、逆光になる神社が多い。社殿が東を向いているところが多いのかもしれない▼常にお日様を背にしている神社があった。和名ヶ谷にある弁天社だ。国分川の近く。水田の中にポツリとある。会社の近くなので時間を変えて何度かトライしたが、朝は斜め左から日が差し、正午には真後ろ、午後には斜め右からと、常に太陽が後ろから当たっている▼年末年始は好天続き。運良く雲にお日様が隠れた日があったが、モタモタしている間に太陽が顔を出し、最初で最後のシャッターチャンスを逃してしまった▼と、いうわけで、4面の和名ヶ谷の弁天社の写真だけが、斜め後ろからの撮影なのです。

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2008年(平成20年)12月14日《第685号》

「姉はゴキブリも殺さないんです。だからいろいろ大変」と啓子さんが話されたことがある。関さんの家には10匹の猫がいる。行き倒れになったり、瀕死の状態の猫を見かねて、美智子さんが1匹1匹と拾ってきて増えたものだとか▼そんな美智子さんだから、迂回道路とはいえ、多少なりとも緑を傷つける道路をつくることは、本当は断腸の思いだと思う。子どもの遊び場にある大木や、梅林の梅の木も生きているのだから▼会談の日の3日は、ポカポカ陽気のいい天気だった。「せっかくですから、少し庭を歩きましょう」と市長が言うので、私はこれ幸いとカメラを構えた。しかし、どうしても太陽の光がレンズに入り込んでしまう。私の腕ではいかんともしがたい。後で確認したら、円い光の輪が市長や美智子さんの姿に写り込んでいて、使えるものが少ない。「なんだか、後光がさしているみたい」。つぶやいて、苦笑した▼土地収用法の裁決申請が迫るなか、ギリギリのところで話し合い路線に戻ることができた。私は取材の行き帰り、いつも幸谷の斬られ地蔵に円満解決を願ってきた。お地蔵様のご加護か、それとも関さん宅の庭にある熊野権現のご加護だろうか。今後は双方が人智をつくして、環境にやさしい道路ができることを願う。

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2008年(平成20年)11月23日《第684号》

マラソン大会というのはどこの学校にもあると思うが私の高校のマラソン大会は、42・195キロのフルマラソンだった。驚かれるかもしれないが、弟の高校もフルマラソンで、地元ではそう珍しいことではなかった▼九州の真ん中にそびえる久住山の麓(ふもと)を縦断して戻ってくるという難コース。一人で、箱根駅伝の山登り(5区)と下り(6区)を走るようなものだ。市街地を抜けて山に向かうと急な登りになる。山の麓の道はなだらかなアップダウンだが、帰りはまた下り坂の連続▼陸上部で一番速い人は2時間台で帰ってきたと思う。私は、その倍はかかった。体力的にはまだ余裕があっても、20キロ過ぎで足がつって走れなくなることが多かった。山の天気なので、途中で雪に降られることもある▼数キロごとに保護者がブースを作っておにぎりやコーヒー、お茶などを振る舞う。小さい頃から身体が弱かったので、入学前から母はこの行事のことを心配していたが、「意外と速いねぇ」と笑顔で迎えてくれた▼そしてまた走り出す。定年近いおじいさん先生がきたえた筋肉を浮き立たせながら、ホッホッと抜いていった。私は山麓の雄大な景色の中をトボトボと走る。何だか人生のようだなぁ、と高校生ながらに考えていた。

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2008年(平成20年)11月9日《第683号》

ひと昔前のSF映画にはよく黒人大統領が登場した。黒人大統領=未来の話、ということだったのだろう。それが、今週現実となった▼小学生の頃、図書館にあるSF小説を読みあさっていた。「戸田君はマンガを読んでいるんだな」と担任の先生に言われた。マンガを悪書の代表のように言っている先生だったので、ほめ言葉ではない。偉人の伝記を読んでいる子はほめられるのに、ヘンだな、と思っていた▼私はマンガというメディアを高く評価しているし、SF小説はただの絵空事ではない。科学的な知識に基づいて未来を予想し、時には警鐘を鳴らすという役割もある。SF小説には宇宙開発、クローン、ロボット、コンピューターなどが重要な要素として登場する。いずれも現実になったものばかりだ。描かれるのはバラ色の未来ではなく、そこで発生する問題が題材になることが多い▼クローン技術に規制がかかったり、ネット社会が問題になるたびに、「ほら、先生の考えは間違ってましたよ」と心の中でつぶやいた。先生も忘れているだろう小さなことに、こだわっていた▼数年前に先生は交通事故で亡くなられた。同窓会で「戸田君に会いたいなぁ」と話していたという。私も会いたかった。会って、SFの話がしたかった。

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2008年(平成20年)10月26日《第682号》

前号から「諏訪道」の紹介をしているが、実はその前に「日光東往還」を歩いた。南柏駅近くの旧水戸街道から流山・野田方面に向かい、関宿の境大橋を越えて日光に向かう道だ。江戸時代に日光街道の脇道として使われた▼利根運河周辺や、蔵が並ぶ野田の町など「点」として見ると見所も多いのだが、「道」としては旧街道の面影があまり残っていない。開発が進む流山おおたかの森駅付近では道がどう続いているのか、一時分からなくなった。関宿まで歩いたが、掲載は見送った▼NHK−BSの「熱中時間」という番組で都内の「暗渠(あんきょ)」の跡を探している男性ロックシンガーが紹介されていた。暗渠とは、ふたをし、地下水路になった川のこと。高度経済成長期に川は汚れ、異臭を放つようになった。彼が生まれ育った渋谷にも多くの川が流れていたが、東京オリンピックを前に、まさに「臭いものにふた」をするように、暗渠に姿を変えた▼唱歌「春の小川」のモデルになった川は、彼の家の前を流れていた川だという。彼が物心ついたころには、既に暗渠に。春の陽ざしがさんさんと降り注いだ小川は、今は私たちの足の下の暗い地下を流れている。「ありがとう」「ごめんなさい」。複雑な想いのつまった彼の言葉に、心が動いた。

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2008年(平成20年)10月12日《第681号》

坂川は伊勢丹の裏でカーブし春雨橋の方に向かう。流れが淀むところだが川面が波立っているのを見かけた。潜水艦のように水中を勢いよく進む何かがいる。頭の中に映画ジョーズのテーマ曲が流れる▼ザッと頭を出したのは首の長い茶色い鳥だった。もちろん立てた波は小さなものである。しかし、その場面だけをアップで見れば、きっと怪獣に見えただろう。ふと、ネス湖のネッシーの有名な写真が、実は小動物かなにかを写したトリック写真だったことを思い出した。鳥は再び潜ると、魚の群を猛スピードで追いかけている。その姿はまさに首長竜が水中を泳いでいるようだった▼雨が多く、水量も多いせいか坂川の水は透明度が高かった。水草も美しく流れにそよいでいる。濁っていたり、ドブ臭いにおいがすることもあるが、都市にある川としては驚くほど美しい▼ボランティアによる啓蒙もさることながら、古ヶ崎浄化施設の働きが大きい。もともと坂川、新坂川の水を浄化して江戸川に流し、水道水の安全性を向上させる目的でつくられたが、浄化水の一部を坂川に環流させ、坂川の浄化も担ってくれている▼なかば強引に、人工的に美しくなった川とはいえ、動物の間ではきょうも、食うか食われるかの自然の営みが続いている。

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2008年(平成20年)9月28日《第680号》

自転車で走っていると子猫が道路に座り込んでいた。車にひかれてしまうと思い、抱き上げると手足に力が入っていない。生後2か月ぐらい。身体は骨と皮だけ。3匹も4匹も同じかぁ…という思いが頭に浮かんだ▼3月に黒猫のクロが亡くなり、その後縁あってノラの子猫姉妹がやってきた。今はミケの老猫と3匹で家にいる。今年は不思議とこういう場面にぶつかる。すぐに病院に行き、点滴とノミの駆除をしてもらった。目に炎症がある。弱っているらしく食べ物はおろか、水も飲まない。3日目に水を飲んでくれた時には心底ほっとした。今では食欲も出て走り回る元気も出てきた▼18年度、千葉県動物愛護センターで殺処分された犬は6千匹、猫は8千匹。この数字には千葉市と船橋市が含まれない。県全体ではもっと多くなる。9年度は犬1万7千匹、猫1万2千匹だったのに比べればずいぶん減った。引き取る場所を減らし、有料にしたことが功を奏したようだ。全国では毎年30万匹以上の犬猫が処分されている▼まず捨てないこと。子どもが生まれて困るのなら避妊去勢手術をすること。犬猫が欲しいと思ったら、愛護センターやボランティアの譲渡会、ホームページをのぞいてほしい。あなたを待っている子がきっといるはず。

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2008年(平成20年)9月14日《第679号》

市広報担当室を訪ねると担当職員が何か言いたそうにしている。弊紙で「関さんの森」を関さん宅の庭や梅林、こどもの遊び場などを含めた全体としたことが問題のようだ。この「関さんの森はどこまでか?」という問題、以前に道路計画の主体である都市整備本部を取材した際に前本部長からも同様の指摘を受けた▼「関さんの森」の主宰者はだれか? 関さん姉妹や「関さんの森を育む会」、「関さんの森エコミュージアム」の人たち、屋敷林の寄贈を受けた(財)埼玉県生態系保護協会のはずだ。その主宰者が森は庭や梅林、遊び場を含めた全体だと言っているのだから、こちらを尊重するのは当然だ。現実に「育む会」は庭や梅林、遊び場で環境学習や作業などの活動を行ってきた▼市は「『関さんの森』を分断する道路」という認識が市民に広がることを恐れているのだろう。百歩譲って庭や梅林が森に含まれないとしても「緑を分断する道路」であることに変わりはない。樹齢200年の古木も犠牲になる。「言葉遊び」は問題の本質を見えなくする▼1日発行の「広報まつど」では「(道路は)『関さんの森』から離れた南側を通ります」と紹介。まるで道路と森が関係ないかのようだ。市は道路問題をリーフレットにして、支所などで配るという。

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2008年(平成20年)8月24日《第678号》

始まるまでもいろんなことがあった北京オリンピックが終わろうとしている▼メダルを手に満面の笑みを浮かべる選手がいれば、反対にメダルを手にしても悔しそうな表情を浮かべる選手もいる。いちばん表情が分かれるのは銅メダルだろうか。金メダルが確実だと言われたのに、決勝にも残れなかった選手と、逆に最高の力を出して銅メダルに手が届いた選手▼私はある光景を思い出していた。大学の入学式が終わって、初めて語学のクラスメイトが顔を合わせたとき。晴れやかな顔の人もいれば、どことなく暗い表情の人もいる。まだ入試の余韻が残るころで、自然と受験の話になる。晴れやかな顔の人は「まさかここに受かるとは!」と言い、暗い表情の人は「本当は××大学に行きたかった」と言う▼到達点は同じでも、ある人には金メダルで、ある人には銅メダル、いやそれ以下の成績なのかもしれない。かく言う私も複雑な心境の一人だった。暗い表情の人たちの中には司法試験など、早くも4年後の「リベンジ」を目指す人もいた▼一定の結果を出したとしても、それを評価するのは自分自身。いかに努力したかは自分だけが知っている。そこに最高の結果がついてくればいいのだが、そうもいかないのが、また人生である。

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2008年(平成20年)8月10日《第677号》

豊かな緑は市民に憩いや癒しを与える存在であり、地球環境の保護の観点からも貴重――。これは、移転を計画している千葉大園芸学部に、市が存続を訴えるために出した要望書の一節だ▼苦笑せずにはいられなかった。この言葉はいつも関さんらが訴えていることと同じだからだ。園芸学部の存続を求める署名は、市の強力なバックアップで瞬く間に15万人を超えた。市の必死さがうかがえる。その市が緑豊かな里山に市道を通すため強制収用をする。この矛盾はどうか▼7日には立ち入り調査を開始。市職員51人、測量業者25人が現地に入った。警官の姿もあったという。関さんの支援者も120人が駆けつけ、公務執行妨害にならないよう、口頭で抗議した。私は締め切りで動けなかったが、さぞ物々しい光景だっただろう▼私は園芸学部が松戸に残ってほしいと思う。学生さんに不便をお願いしてもだ。同じように、「関さんの森」も現状のまま残ってほしい。ドライバーに5分間の迂回をお願いしてもだ。ましてや関さんは道路を通さないとは言っていない▼今年の夏はおかしい。豪雨で尊い命が犠牲になった。だれの目にも環境への配慮は時代の急務だ。市の行為は時代に逆行しているとしか思えない。話し合いを継続すべきだ。

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2008年(平成20年)7月27日《第676号》

野茂英雄投手が、引退を表明した。いつかはと思ってはいたが、寂しい風が心を吹き抜けた。会見も開かずに「悔いが残る」とのコメントを出した。野茂らしいといえば、野茂らしい▼私たちは「ヒーローのいない世代」と言われていた。物心ついた時には王や長嶋も全盛を過ぎていた。ビートルズもケネディもモンローもいなかった。だから熱狂的な長嶋ファンのおじさんたちの気持ちがわからなかった▼野茂が大リーグデビューを果たした時、私は失業中で、朝からテレビを見ていた。野茂が投げるたびに球場から津波のような歓声が巻き起こる。日本での高額の年俸や実績をかなぐり捨てての挑戦。当初はマスコミも冷ややかだった。野球の試合を見ていて鳥肌が立ったのはあの時が初めてだ▼がんばらなきゃ、と思った。野茂は自分の夢のためにがんばっている。私や世間の人のことは関係ない。でも、野茂を見る私は確実に元気をもらっている。その後、野茂はいく度かの挫折と復活を繰り返し、私はそこに自分の人生を投影した▼F1レーサーのアイルトン・セナが亡くなった時、心にぽっかり穴が空いたような喪失感を感じた。遠い存在の人のはずなのに。野茂の引退を聞いても、私は寂しい。ヒーローとはこういうものかと思う。

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2008年(平成20年)7月13日《第675号》

朝テレビをつけるとニュース番組のトップ扱いで「大分県の」という言葉が耳に入る。大分県出身の私は「珍しいな」と、まだ半分眠ったままの頭で耳だけを傾けた。隣の宮崎のように知事の活躍が注目されるならいいけれど、大分の場合は教職員の不正採用である▼教員夫婦(夫は県教委職員で妻は市立小学校教頭)が娘を教員にするために県教委職員に賄賂(わいろ)を贈ったとされる贈収賄事件。逮捕された職員は昨年の小学校の採用試験で約20人について県教委上層部から「合格させるように」と指示されていたという。昨年の合格者は41人。実に半数だ。さらに、「中学校でも不正が」「県議や国会議員の口きき」「20〜30年前から不正が」など、様々な疑惑が取りざたされている▼ふと、田舎にいたころの窮屈(きゅうくつ)な想いがよみがえる。大きな企業もなく、先生か公務員が最高の就職先だと言われていた。あるいは、地元の国立大学の経済学部を出て地元の銀行に勤めるのがエリートコースだと思われていた。あまりの選択肢のなさと息苦しさで、私は高校を卒業すると、とっとと都会に出た▼私が小中学生だった頃にも不正があったのだろうか。こんな時に思い浮かぶのは嫌いだった先生の顔である(別に根拠はないですけど)。

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2008年(平成20年)6月22日《第674号》

スーパーの棚にバターが無いことに気づいたのは数か月前。いつも炒め物に使っていたブロックに切られたバターが無い。たまたま売り切れているだけかと思って数日見たが、その後入荷はなかった▼後にバターが不足しているとニュースで知って驚いた。乳製品は牛乳、生クリーム、チーズ、バターと、日持ちしない順に作る。つまり、バターは最後に「余った」生乳で作る。牛乳が飲まれなくなったこともあり、ここ数年バターの在庫がだぶついていた。酪農業者は生産調整(牛を処分すること)を迫られ、泣く泣く応じた▼ところが、乳製品の一大生産地であるオーストラリアが大干ばつに見舞われ、中国やロシアで乳製品の需要が高まっていることもあり、輸入バターが入りにくくなった。政府はメーカーにバターの増産を要請したが、子牛が乳を出すまでには2年かかる。再び生産調整を迫られる可能性もあり、おいそれと増産できないという▼「朝令暮改」という言葉が頭に浮かぶ。この国に「農政」はない、と元官僚が話すのを聞いたことがある。食料自給率が40%を切っているのに、まだ減反政策を続けている。米も乳製品も作りすぎたら輸出にまわすことはできないのか。日本が農産物の輸出国になる、という発想はないのか。

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2008年(平成20年)6月8日《第673号》

ガラパゴス諸島が世界遺産登録から外される可能性があることを、NHKの番組で知った▼動植物が独自の進化をとげ、ダーウィンに「進化論」の着想を与えた。1978年に第1号の世界遺産として登録。観光客が30倍に増え、高収入を求めて2万6千人もの人が住んでいる。大量のゴミで環境が悪化。ヤギなど100種類もの外来種が持ち込まれ、海上では密漁が絶えない。領有するエクアドルは政情不安が続き、対策をとってこなかった▼無性に腹が立った。遠い国の、一生行くこともない島の話なのに。エクアドルのものだから、どうしようと勝手、というものではない。地球の宝だから「世界遺産」なのだ。もう観光客も行かないでほしい。住民も全員退去してほしい。これぐらい極端なことをしても外来種の問題が残る。元の姿を取り戻すことは絶望的に難しい▼程度の差こそあれ、屋久島などでも同じような問題が起きている。国内の世界遺産は14。最近は「あそこも世界遺産になったの?」と思うような場所(失礼)まで登録される。名誉に加え、観光による経済効果という地元の思惑も見える▼本当の意味で「世界遺産」と呼べるものは初期に登録されたのでは。これ以上増えると、価値自体も目減りしていくように思う。

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2008年(平成20年)5月25日《第672号》

20年前に就職した出版社の新人研修で立川の工場を訪れた▼白いランニングシャツを着たおじさんが、木箱の中に鉛の活字を詰めていた。この木箱がいわゆる「ゲラ」である。おじさんは学校を出たばかりの若い顔が並ぶ前で、照れくさそうに作業を続けていた。その近くでは活字を鋳造する機械から新しい活字が生まれ、ポト、ポトっと受け皿に落ちていた▼この会社では活版が活躍していたが、世は電算写植の時代だった。3年後、私は最初の転職をしたが、写植について知識がないことを大きなハンデと考えていた。もぐり込んだ編集プロダクションでは、付け焼き刃的に写植の知識を詰め込んだ▼そして今、私は写植も使わなくなった。パソコンの画面上で作った紙面がそのまま印刷される。最終日に印刷機を回す職人さんの顔を見にいくだけだ。技術の進歩は中間にいた人たちの顔をどんどん省いていった。ランニングシャツのおじさんや写植屋さんはその後どうしただろう▼私はガスの元栓や戸締まりを何度も確認しないと外に出られない。一種の職業病だ。「新年の投稿」を「信念の投稿」と打ち間違えて出してきたオペレーターがいた。そんなことが重なり、何度も確認する癖がついた▼時代の名残が、皮肉な形で私の中に生きている。

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2008年(平成20年)5月11日《第671号》

黒猫のクロが亡くなって1週間後「猫に困ってない?」と友達から電話が。クロのことを知らないはずなのに、と不思議に思ったが、子猫を拾い里親を探しているという。ウチには13歳になる三毛猫のミンミンがいる。きっと子猫をうるさがるだろう。それにまだ「喪中」だ▼クロの看病をしている頃から、ペットロス(ペットを失ったことでなる、うつ症状)を心配した。動物病院からは見越したように、お悔やみとペットロスの対処法を書いた手紙が届いた。が、仏像や燭台などをそろえ、かわいい仏壇を作っているうちに落ちついてきた▼子猫はキジトラと白黒の、姉妹(多分)。知らん顔もできなかった。2匹で遊んでくれたほうがミンミンも楽だろうと、2匹とも引き取ることに。生後3か月ぐらいだが、栄養状態が悪かったのか、白黒はキジトラの半分しかない。目も感染症がひどく、見えているのか分からない▼それから1か月。目薬が欠かせないが、よく食べ元気に走り回っている。子供はかわいいけど、うるさい。世のお母さんの気持ちがわかる気がする。1階は子猫たちに明け渡し、2階で私とミンミンはしばし憩う。キジトラをさくら、白黒をチビクロと名付けた。クロが亡くなった日、桜が満開だったことを思い出したのだ。

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