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2010年(平成21年)1月10日《第710・711号》

「東葛の寺社めぐり」で、流山市内全域を歩いた。主に使ったのは自転車で、たまに電車と徒歩という場合もあった▼松戸から流山に広がる下総台地は、小さな丘陵や小山も多く、意外と登り下りが多い。クルマだと分からないかもしれないが、ペダルの重さで直に感じた。私の住む稔台からだと、流山市内に入るまで45分くらい。市の北の端、利根運河までは約1時間半くらいかかる▼利根運河沿いのサイクリングロードを江戸川の方に向かうと、左手に西深井、深井新田、平方、平方村新田などの、広大な田園風景が広がっている。この風景を紙面で紹介したい、といつも思うのだが、180度のパノラマ写真でも使わない限り、その美しさ、広大さは伝わらないだろう▼一方で、つくばエクスプレスが通る思井、中、前平井、後平井、市野谷というのは、行くたびに開発が進み、風景が変わる。ある程度都市化が進んだ後での新線の建設。人が少ない所を選んで線が引かれる。すなわち、都市の中で少なくなった貴重な緑が残された場所ということだ▼市野谷の森は、オオタカが営巣することで有名だったが、今も住んでいるのだろうか。隣接する西初石には「おおたかの森駅」ができ、ニュータウンが広がりつつある。

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2009年(平成21年)12月13日《第709号》

この季節になると、今年亡くなられた方のことをつらつら考える。私が印象に残っているのは、9月に登山中に事故で亡くなられた「クレヨンしんちゃん」の原作者、臼井儀人さんだ▼17年前、私は都内の小さな編集プロダクションに勤めていて、「しんちゃん」の関連本の編集を担当していた。当時から「しんちゃん」は大人気で、関連本も数えきれないぐらい出ていた。私が担当した本は、しんちゃんが地底の世界に迷い込み、クイズを解いたり、迷路を歩いたりしながらゴールに向かうという、ゲームのような本だった▼関連本担当の漫画家が鉛筆でラフ原稿を仕上げると、版元の出版社に提出する。臼井さんは自身の連載もかかえ、かなり多忙だったはずだが、関連本にも必ず自分で目を通している、と聞いていた▼「映画なんかでは、ある程度しょうがないところもあるけれど、臼井さんは、戦争や戦闘のシーンが〈しんちゃん〉に出てくるのをとても嫌がるから、気をつけてね」。当時、上司からこんなことを言われたのを覚えている。お会いする機会はなかったが、「きっと真面目で、優しい方なんだな」と思っていた▼臼井さんは亡くなられたが、「しんちゃん」という優しい男の子はずっと生き続けるだろう。ご冥福をお祈りします。

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2009年(平成21年)11月22日《第708号》

小学校の図書館にSFの名作全集が入り、私はアイザック・アシモフの「鋼鉄都市」やエドガー・ライス・バローズの「地底世界ペルシダー」などを夢中で読んだ。担任の先生からは「なんだマンガを読んでいるのか」と皮肉られたが、当時からSFというジャンルは一段低く見られる傾向があった▼21世紀に入った現在、ロボット、クローン、人工知能(コンピューター)など、SFで描かれていた世界が現実になっている。SF=サイエンス・フィクションは単なる絵空事ではない。携帯電話も、今話題の電気自動車も、昔から見ればSFっぽい▼しかし、電気自動車の歴史は意外と古く、19世紀後半にガソリン車よりも早く英国で登場したという。その後、米フォード社が大衆向けガソリン車を開発し、市場はガソリン車が独占。電気自動車は姿を消した▼VHSとベータマックスのビデオのシェア争いを思い出す。VHSが生き残ったわけだが、性能はベータの方が優れていたという話も。世の中、良いものが必ず残るとは限らない▼もし、市場競争に電気自動車が勝っていたら、と考える。20世紀は電気自動車の時代に。中東の石油をめぐる争いも、地球温暖化も、ぜんそくで苦しむ人も、今よりずっと少なかったかもしれない。

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2009年(平成21年)11月8日《第707号》

人の記憶が何歳から始まるのか分からないが、私の最初の記憶は病院の風景である。2歳でネフローゼという腎臓の病にかかり、小学2年まで入退院を繰り返した▼祖父母が付き添ってくれたが5歳からは付き添い禁止に。仕事で忙しい母は1週間に1度しか来られない。夕暮れ時、広い中庭を通って帰る母の後ろ姿を見えなくなるまで見送った▼食事療法のため食事に味がついていないのも辛かった。お菓子はもちろん、果物でさえ禁止。数滴分のしょうゆがつくが、濃い味が好きな子どもの舌には意味がない。何日か溜めて1回の食事で使う子もいた▼庭の大きな池で友だちとプラモデルの潜水艦を浮かべていて、池に落ちたことがある。ザブーンという大きな音に気づいた看護師さんが助けてくれた。ウルトラマンの人形に手製のパラシュートをつけて屋上から飛ばした。病室で死んだ金魚を同室の女の子と庭に埋めた。「土の上に輪ゴムを置くと蟻が来ないよ」と教えてくれた▼割り算を教えてくれたのは看護師さんだ。実習にきた学生たちと怪談をして眠れなくなった。実習が終わっても病室を訪ねてくれる優しい人も。子ども心に、この人はきっといい看護師になる、と思った▼何かと厳しい病院だったが、遊び場であり、学校でもあった。

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2009年(平成21年)10月25日《第706号》

帰宅するとアパートの隣の部屋の前に白い猫が座っていた。私の姿を見ると人懐っこそうに近寄ってくる。夜なので気が引けたが隣のドアをノックした。おばさんに確認してもらうと、やっぱりシロだった▼シロは近くの家で飼われていたが、取り壊しとなり、住人もどこかへ引っ越していった。なぜかシロだけが残された。飼い主が恋しいのか、跡地で寝ている姿が目撃されていた。体が汚くなり、皮膚病なのか毛が抜けていた。オスでケンカが絶えず、生傷が痛々しい。見かねたおばさんがエサをあげるようになり、シロも毎日アパートを訪ね、おばさんも可愛がった▼が、ある日を境に姿を見せなくなった。おばさんは周囲を探したが、見つからない。2か月が経ち、私もおばさんも口には出さないが、シロは死んだのだろうと思っていた▼その夜のシロは皮膚病もケガもきれいに治り、少し太って見えた。かわいそうに思った誰かが、拾って飼っているのだろうか。病と傷が癒えるまでは外に出さないようにしていたのか、シロが勝手に抜け出してきたのか。私は先に寝てしまったが、シロはおばさんから缶詰をもらい、しばらく遊んでいったという。翌朝「昨夜は嬉しくて眠れなかった」とおばさん。「猫の恩返し」みたいな話だと思った。

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2009年(平成21年)10月11日《第705号》

根本さんの原稿を読んで昔を思い出した。私が駆け昇ったのは、デパートではなく予備校の階段だ▼人気のある授業は5階より上の大教室で行われる。入口が開く前に並び、開門と同時に走り出す。エレベーターの第一陣にもぐり込めればしめたものだが、間に合わなければ階段の方が早い。ゼーゼー言いながら駆け昇った。教壇の前のかぶりつきを好む人もいたが、私のお気に入りは、黒板全体が見える4、5列目だった▼ゆっくり来ても座れなくはない。ただ、後ろの方は環境が悪い。雑談をしていたり、居眠りをしている人もいる。予備校だから出席は自由。いっそのこと外で遊べば、と思うのだが、そこは受験生の心理で、教室にいればなんとなく安心する。前の方には緊張感があり、授業に集中できた▼授業が終わると質問のための列ができる。講師室まで追いかけたこともあった。1分1秒が貴重だった当時に比べ、漫然と過ぎる大学の時間が空虚に感じた。妙な話で、後にも先にも、あんなに熱心に勉強したのは予備校にいた2年間だけだ▼福岡市にあったが、東京や名古屋から進出した大手に押され、後に廃校。重厚な作りの校舎だけが、そのままの姿で残された。もうあの階段を駆け昇る人はいないのか、と思うと寂しかった。

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2009年(平成21年)9月27日《第704号》

久しぶりに誇らしい気持ちでニュースを見た▼鳩山首相が国連安保理で、唯一の被爆国として核廃絶の先頭に立ち非核三原則を堅持することを表明した。当然の、真っ当な主張に思えるのに、何を遠慮して今までの首相は言わなかったのか。いや、言っても力強さに欠けたのか。総会では、「20年までに温室効果ガスを90年比で25%削減する」との目標を示し、各国から称賛された▼首相はインド洋での給油支援を止め、かわりにアフガニスタンで、職業訓練や農業支援などの民生支援に力を入れるという。農業支援をしていたペシャワール会の伊藤和也さんが殺害されるという不幸な事件もあったが、今まで民間レベルで現地から高い評価を受けてきた分野だ。これに国としても力を注ぐ、ということなのだろう。異論もあろうが、私にはこれも真っ当な考えに思える▼国内では、前原国交相が八ツ場ダム建設中止をめぐり、現地を視察。住民から強い反発を受けた。日本航空の再建も難題だ。同社の体質にも問題があるのだろうが、採算のとれない地方空港と路線を作らせた政治の責任も大きい▼鳩山首相は就任後の会見で国民に「寛容」を求めた。前政権の半世紀にわたる膿(うみ)と垢(あか)を洗い落とすのは、並大抵の仕事ではない。

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2009年(平成21年)9月13日《第703号》

お昼前に近くの小学校に行くと校門の外まで投票に並ぶ人の列ができていた。「こんなの初めてだよ」「みんな思うところがあるのね」前に並んでいる中年夫婦が話している。様子を見に来て「ウワッ! 後で来よう」と言いながら、帰ってゆく人も。文庫本を開いた。投票まで20分以上はかかったと思う▼台風の接近で空はどんより。大雨になったら、並んでいる人たちはどうするだろう? 投票率が気になった。70、いや80%に届いたりして…。しかし、結果は全国で69・29%。前回より1・78ポイント増。県内で64・89%。0・30ポイント増。びっくりするほどではない。現実はこんなものか▼予想通り民主が300議席を超える圧勝で、自民は100少しまで落ち込んだ。テレビには、どこかうつろな目をした大物議員の姿が▼数日後、麻生総理へのぶらさがり取材の映像が酷かった。若い記者の質問に、あげ足をとり、イヤミな屁理屈でやり込めている。口げんかしている子どもみたいだ。負けたとはいえ、まだ一国の首相なのですよ、あなたは。記者とテレビカメラの向こうに、多くの国民がいることを忘れないでいただきたい▼二大政党制には、健全な野党・自民党が必要だと多くの国民が思っている。が、道は険しそうだ。

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2009年(平成21年)8月23日《第702号》

8月は鎮魂の月。NHKを中心に多くの戦争関連の番組があった。「日本の、これから」という討論番組では、「核」がテーマに▼「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則も揺らいでいる。特に「持ち込ませず」については、密約があり、実際には核を搭載した米艦船が国内の基地に入港している、という説も有力▼番組を見て驚いたのは、「日本も核武装すべき」との意見が少なからずあること。一般の調査でも7割以上が「核について議論してもいい」と答えている▼どちらも私には考えられない、選択肢としてもありえない。広島や長崎の原爆資料館を見たことがあるのだろうか。議論すらだめだというと、非民主的に聞こえるかもしれないが、議論するということは、核を持つという結論もあり得るということ? 北朝鮮の脅威から、こんな意見も強まるのだろう▼番組に出ていた専門家の言葉に少し安心する。日本が核兵器を持とうとすれば、韓国、台湾に核武装が広がる。アメリカも大反対だろう。国連で制裁が決議され、石油や食料の輸入が止まる。プルトニウム自体、輸入に頼っているから現実的には不可能▼真の独立のためには核武装が必要、という意見もあった。が、国民を危険にさらして、何の独立か。

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2009年(平成21年)8月9日《第701号》

超過滞在となっている外国人家族が、在留特別許可を求め、春の銀座の街をデモ行進した▼集合場所の公園で、支援しているNGO団体の人が拡声器で話す。「警察の方が来てますが、きょうは皆さんを守るために来ています。怖がらなくていいですからね」。入国管理局や警察で取り調べを受けた人もいるから、こんなことを話すのだろう。警察車両の先導でデモ行進は整然と行われた。参加した子どもの中には「警察官になりたい」と将来の夢を書いたプラカードを下げた子もいる▼松戸へ帰る道すがら、私を取材に誘ってくれたAさんは「日本の警察はいいですよ」と何度もつぶやいた。Aさん家族の母国、フィリピンの警察は違うという。どこが、どう違うのか具体的に聞きたかったが、Aさんの口は重い▼5面の映画欄で紹介した「チェンジリング」を観ても思うのだが、警察組織というのは、どこの国でも諸刃の剣なのだろう。うまく機能すれば市民を守る心強い存在になるが、汚職や隠蔽が横行すれば、恐ろしい存在となる。合法的に市民を拘束でき、秘密保持が職務だから、外からは見えにくい▼日本の警察でも、でっち上げとも思える冤罪事件を起こすこともある。取り調べの可視化など、「外からの目」を入れる必要がある。

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2009年(平成21年)7月26日《第700号》

やっと、本当にやっと来ました総選挙。前回の郵政選挙から4年。当時小泉チルドレンの象徴的存在となった杉村太蔵氏のタナボタと言わんばかりの軽率な発言と、高笑いをテレビで見るたびに、こんな人が…、議員のイスも軽くなったものだとガックリきたのを覚えている▼その杉村氏は次の選挙への出馬を断念。「親分」の小泉純一郎元首相は引退。息子が跡を継ぐ。つまり世襲である。小泉氏は結局、改革者ではなかったのだろうか。郵政民営化さえやれば満足なのか。その先に国民の生活が良くなるという帰結がなければ、本当の改革とは言えないのではないか。改革には良い面と悪い面がある。この4年間では国民の痛みの方が目立った。改革に逆行するような動きが出ているこの時期に、何も言わず引退ですか。片腕だった竹中平蔵氏も任期途中で議員を辞め、学者に戻っている▼結局は自公で3分の2議席という大勝と、郵政選挙の成功体験が自民党をガタガタにしたとも言える。一方の民主党もどこまでできるか不安である。が、経験がないことを責めてもしょうがない。経験がなければ積んでもらうしかない▼民主党は不安だけど一度任せてみるか、不満だけど自民党に未来永劫政権を担当させるか。大切な選挙が迫っている。

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2009年(平成21年)7月12日《第699号》

福山雅治さんが夢に出てきたことが2度ある。2度とも福山さんは私の友達だった。歳もちょうど同じくらい▼某有名女性誌の人気投票では、何年も連続で1位。いわゆるイケメン(私はこの言葉が嫌い)中のイケメン。だが、ラジオのDJでは平気でエッチな話をする。どこかガキ大将のようだ。男から見てもカッコいいのに、嫌味がない。時々、福山さんになれたら、と夢想する。モテるんだろうなァ▼ところが、ある女性に、「福山ってカッコいいよね」と話すと、「え? どこが」。実は彼女、「悪球打ちの岩鬼」の女版なのである。水島新司のマンガ「ドカベン」に出てくる岩鬼はクソボールばかりを選んで打つ。野球だけではなく、女性の好みも世間では不美人と思われている人が好き。普通の人とは判断基準が逆なのだ▼件の彼女も他の女性からは「どこがいいの?」と思われるようなカッコわるい男ばかりを好きになる。好きなタレントを聞いても、確かにブ男ばかり。彼女自身はなかなかの美人で、救われた男性も少なくないのでは?▼彼女ができない、モテない、と悩む男性は多い。自分の顔のせいだ、と思い込んでいる人もいる。若いころの私もそうだった。でも、世のなかには彼女のような人もいる。ご同輩よ、希望を持とう。

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2009年(平成21年)6月28日《第698号》

号のこの欄で書いた求職中の話。空港でのアルバイトの前はNHKの集金をした。青山や広尾などに住む外国人のお宅に行って、日本ではテレビを持っていると、NHKの受信料を払わなければならないことを説明し、契約をしてもらう。まだ若かった私は、様々な可能性を模索して、英会話を習っていた。その腕試しをかねて、の仕事だった▼ビジネスマンの家庭が多い高級住宅街。家にいるのは奥さんか子ども。素直に契約してくれる人もいれば、ちょっと賢い(?)人は、「夫と相談して」と言う。翌日行くと「夫の日本人の同僚から、それは払わなくていいお金だと言われた」。また、「日本語が分からないので、ビデオを観る時に使うだけ」と言われると、それ以上は押せなくなってしまう▼私はNHKをよく観るが、民放中心でNHKはほとんど観ない、という人もいる。テレビがあれば自動的に受信料、というのはどうか。厳密に言えば、複数のテレビがある家庭は、台数分の受信料が必要なのだ。「取れるところから取る」という実情は不公平感がつきまとう▼NHKが、あるホテル会社を受信契約拒否で初提訴したという。ほかの有料放送のように、契約しないと映らない、という仕組みにできないのか。そのほうがスッキリする。

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2009年(平成21年)6月14日《第697号》

大学を卒業し、就職してからの5年間を神楽坂という町で過ごした。この町には有名な毘沙門天(善國寺)があり、境内に浄行菩薩がある。優しい女性のような面立ち。前には水が張られ、ひしゃくとタワシが置いてある。水をかけ、タワシでお体をゴシゴシ。そして祈る▼よくお参りに行くようになったのは、後半の2年間だ。勤めていた出版社を辞め、再就職を試みたが、とにかくうまくいかなかった。失業保険も切れ、深夜の羽田空港でジャンボ機の機体洗いのアルバイトをした。強い洗剤を含んだ重いモップを頭上の機体に振る。洗剤がタラタラと顔に落ち、目に入ると失明するのでゴーグルにカッパという出で立ち。夜の空港は暗い。作業用のバスから闇をながめ、「自分の人生はどうなってしまうんだろう」と考えた。10か月後にある編集プロダクションに拾ってもらったが、力不足で4か月でクビになった▼気がつくと、毎日のように浄行菩薩の前に立つようになっていた。手を合わせると、自分の弱さや甘え、邪心など、いろんなものが見えてくる。祈るとは、自分の心をのぞくこと、自分との対話なのだ、と思い当たった▼私はこの仏様に心ひかれ、仕事などで迷いを感じた時は、今でも訪れる。私にとって大切な仏様である。

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2009年(平成21年)6月14日《第697号》

大学を卒業し、就職してからの5年間を神楽坂という町で過ごした。この町には有名な毘沙門天(善國寺)があり、境内に浄行菩薩がある。優しい女性のような面立ち。前には水が張られ、ひしゃくとタワシが置いてある。水をかけ、タワシでお体をゴシゴシ。そして祈る▼よくお参りに行くようになったのは、後半の2年間だ。勤めていた出版社を辞め、再就職を試みたが、とにかくうまくいかなかった。失業保険も切れ、深夜の羽田空港でジャンボ機の機体洗いのアルバイトをした。強い洗剤を含んだ重いモップを頭上の機体に振る。洗剤がタラタラと顔に落ち、目に入ると失明するのでゴーグルにカッパという出で立ち。夜の空港は暗い。作業用のバスから闇をながめ、「自分の人生はどうなってしまうんだろう」と考えた。10か月後にある編集プロダクションに拾ってもらったが、力不足で4か月でクビになった▼気がつくと、毎日のように浄行菩薩の前に立つようになっていた。手を合わせると、自分の弱さや甘え、邪心など、いろんなものが見えてくる。祈るとは、自分の心をのぞくこと、自分との対話なのだ、と思い当たった▼私はこの仏様に心ひかれ、仕事などで迷いを感じた時は、今でも訪れる。私にとって大切な仏様である。

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2009年(平成21年)5月24日《第696号》

アフリカで生まれた人類は欧州やアジア、南北アメリカへと広がる過程で気候や風土に適応して様々な人種が生まれた。これをグレート・ジャーニーという。これと同じことが猫でも起こったようだ▼ペットとして飼われている猫(イエネコ)はもともと自然界にはいなかった。祖先となるヤマネコは気性が荒く人にはなつかない。中東や古代エジプトで比較的おとなしい個体を交配させ、イエネコがつくられた▼農耕が始まると穀物をネズミから守るために、欧州やアジアへと伝えられた。日本にやってきたのは6世紀。大陸から仏教が伝来する時に、仏典や仏像をネズミから守るために同じ船に乗せられた。日本の風土に適応した猫は、尾の短いジャパニーズボブテイルという種に進化した▼ローマではいくつかの遺跡の周辺にノラ猫の保護区があり、寄付によって維持されている。テレビで管理人の男性が「猫を守るのは私たちの義務」と話していた。古代エジプトから最初に猫が伝わったのはローマ。彼はそんな歴史を知っているのだろう▼日本でも豊漁や漁の安全を守るものとして猫が大切にされている島がある。人より多い100頭の猫が暮らし、猫を祀る神社もある。仏様を守って日本に来たのだから、神になってもおかしくはない?

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2009年(平成21年)5月10日《第695号》

忌野清志郎さんが亡くなった。58歳。がん性リンパ管症。2年前喉頭(こうとう)がんと診断され、昨年転移が見つかった▼訃報に触れ、一級下の弟の友達のことを思い出した。中学で弟には2人の仲のいい友達ができたが、彼はその一人。数か月前がんで亡くなった。清志郎さんは声帯を失う手術を拒否したが、彼も、なぜかがんの治療をしなかった▼RCサクセションは弟たちのお気に入りのバンドだった。派手な衣装や化粧、独特の高い声、歌詞の内容など、私にはピンとこないところがあったが、弟たちは「清志郎はかっこいい」と話していた。中学、高校、大学とバンドを作ってコピーもしていた▼田舎に帰った時、偶然バーで彼と一緒になった。長身で美しい顔だち。大学を辞め、古着屋で働いていた。ひょうひょうと生きているように見え、何から何まで違う彼がうらやましくもあった。別れ際、「俺は兄ちゃん(私のこと)のほうがうらやましいんで」と言った。これが彼との最後の会話となった▼実は、うまく世間と折り合いがつかない不器用なタイプだったのかもしれない。亡くなる前は東京でタクシーの運転手をしていたという。40歳を過ぎたばかり。あまりにも早い死に、まだ実感がない。心よりご冥福をお祈りしたい。

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2009年(平成21年)4月26日《第694号》

木曜の夜夕刊を見て驚いた。SMAPの草なぎ(※)剛さんが公然わいせつの疑いで逮捕されたという。泥酔し、未明の公園で全裸で騒いでいたという▼私の知人にも昔、泥酔して、いわゆるトラ箱に入れられた人がいる。警察でお灸をすえられ、上司からもお灸をすえられ、最後に同僚の失笑をかって終わった。でも、それだけである。もちろん逮捕もされない▼しかし、草なぎさんの場合は、逮捕され、自宅の家宅捜索まで受けた。泥酔したとはいえ、人を傷つけたわけではない。お灸にしては、ちょっときつすぎる気がする。鳩山邦夫総務相からは「最低の人間」とまで言われた。そこまで言うかな。草なぎさんが超一級の有名人でイメージもあるから、CMなどいろんな方面に影響が出るのはわかる。でも「彼も人なり」である。間違うこともあるでしょう▼ところでイメージと言えば、森田健作知事。宮崎、大阪とタレント出身の知事が頑張っているので、期待もあって100万票を獲得したのだろう。しかし、具体的な政策が見えず、いまだイメージのままだ。挙げ句、「完全無所属」のはずが、実は自民党支部長だったり、政治資金の問題がとりざたされたりと、仕事もしないうちから悪い話題ばかり。こちらは、イメージだけの人では困るのだが。

 

※「なぎ」は弓へんに前の旧字体その下に刀

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2009年(平成21年)4月12日《第693号》

約6年ぶりに帰省した。大分県竹田市。山あいの小さな町である▼瀧廉太郎が「荒城の月」のモデルにしたと言われる岡城址にも久々に行った。行くたびに城が広くなる。発掘調査が進んでいて、公開される部分が増えているのだ。関東より10日早く桜が満開。平日なのに観光客が多かった▼城下町はご多分にもれずシャッターが目立つ。それでも「小京都」と言われる碁盤の目状の町並みは、「観光で生きていくしかない」と思い定めたように、整備が進んでいる▼先月で廃校になった小学校にも行った。実家から歩いて40分もかかる山の中。道すがら近くを川が流れている。空家が多く、人が減ったためなのか、それとも規制が強化されたためか、川の水が飲めそうなくらい美しい。路傍の樹木が大きく成長し、時の流れを感じる。山は間伐されないため、倒木も多く、荒れていた。田だったところに竹が生い茂り、棚田の美観はもうない▼帰省の目的は霊山・彦山(福岡県)の近くの施設にいる96歳になる祖母に会うこと。大きな人だったのに見違えるほど小さく、細くなっていた。私のこともよく分からない様子で、反応があまりない。わずか6年で…しかし、祖母にとっては長い6年だったのかも知れない。もっと早く、と後悔した.

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2009年(平成21年)3月22日《第692号》

14日のダイヤ改正でブルートレインの愛称で親しまれた寝台特急「はやぶさ・富士」が姿を消した。夕刻東京を出た電車は、翌朝九州の玄関口、門司で熊本に行く「はやぶさ」と大分に行く「富士」に分かれる▼昔は「はやぶさ」と「富士」は別々に運行されていた。最初で最後「富士」に乗ったのは受験で上京した時。もう25年も前。豊後竹田という小さな駅で母に見送られ、1時間半汽車に揺られて大分に着いた▼2等寝台は一般の座席を広くしたような深い青。電車の座席の独特のにおいが白いシーツの向こうから漂い、うまく眠れなかった。当時はまだ食堂車もあった。電車の揺れでグラスが倒れないかと気にしながら、食事をした。行きの電車で富士山が見えると受かる、というジンクスがあったが、富士山は朝もやに隠れていた。ジンクスは当たり、私は2年間の浪人生活に入った▼大分発「富士」の最終電車が出る時、大分駅では「なごり雪」が流されたという。私は一瞬ハッとした。イルカの歌で有名なこの曲を作ったのは、かぐや姫時代の伊勢正三さんだ。伊勢さんは大分県の出身。「東京で見る雪はこれが最後ね」と寂しそうにつぶやき、「今春が来て、君はきれいになった」と歌われた少女も、「富士」に乗って帰ったのだろうか。

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2009年(平成21年)3月8日《第691号》

今の知識と経験を持って昔の自分にもどれたら…。みなさんは、こんな空想をしたことはないだろうか?▼私は中学生からやり直してみたい。学校で習ったことはほとんど忘れてしまったが、勉強の方法は分かっているし、若い頭脳をもってすれば、大した苦労もなく良い成績が取れるだろう。部活も、どの部に入れば自分に合っていたかが今なら分かる。どこに行けば気の合う友だちに早く出会えるかも分かる▼しかし、そうなると高校は別の学校に行く可能性が出てくる。成績が良く、部活でも成功しているのだから。ここから先は未知の世界ということになる。別の高校…それは遠くの町にあり、私は下宿するだろう。そして出会えるはずの人には会えないままになってしまう。私は昔の友だちを街角で見かけ、「本当はあの人と友だちになるはずだったのに…」と、少し寂しい気持ちになる▼それとも、可能性を捨てて昔の高校に行ったほうがいいだろうか。ここまで来て、私の空想はいつも立ち往生する。高校生にもどって、大学に進学するパターンも同じである▼人との出会いこそが人生そのものということか。昔からやり直して成功できても、人との出会いは一度きり。別の道を行けば、会えない人ばかりになってしまう。

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