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2012年(平成24年)2月26日《第750号》

NHKの番組で、タレントで動物愛護活動をしている浅田美代子さんが、ドイツの犬の保護施設を訪ねていた▼ドイツでは犬の殺処分がゼロ。捨てられたり虐待から保護された犬は人間への信頼を回復し、新しい飼い主の元へ。飼い主が決まらなくても、一生施設が面倒を見る▼ペットショップでは生体は売らない。犬がほしい人は保護施設に行くか、資格のあるブリーダーから買う。犬を飼う人は「犬税」を払う。こうした施設は税や寄付によって運営されている。街で出会う犬たちはしつけが行き届いていて、盲導犬なみだ▼ブリーダーの家を訪ねた浅田さんは、少し驚く。狩猟が趣味だという夫妻の家の壁には鹿の頭などが誇らしげに飾られている。犬も野生動物も同じ命なのに▼背景にある文化の違いだろう。犬は狩猟のために飼われてきた。キリスト教では人間が特別な存在で、動物はその下に置かれる。人間の命も動物の命も同じだと考える仏教とは違う。日本人には神道など、自然崇拝の伝統もある▼最近、動物愛護法が改正された。焦点はペットショップなど動物取り扱い業者の規制。日本の現状を見れば、欧州に学ぶところ大である。しかし、日本人はその心情から、より進んだ動物愛護国になれる力を秘めていると思う。

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2012年(平成24年)1月22日《第749号》

私の家の机の上には慈母観音菩薩の凛として優しいたたずまいの立像があり、亡くなった2匹の愛猫の御霊とともに私を見守ってくれている。私は毎朝手を合わせて外に出る▼この仏像を買ったのは松戸駅西口にある平安堂さんで、こちらのご主人、椎名公一さんが11日に亡くなられた。53歳。なにかのイベントに参加していて、走った後に急に具合が悪くなったと聞く▼広告では先代のころからお世話になっていたが、最近はまちおこしのイベントの取材でお会いする機会も多かった。数年前に松戸で映画祭が開かれた折には、中心人物の一人となって、森のホールでタキシードを着て司会をされた姿を思い出す▼広告の打ち合わせの時もいつしか話は映画や野球の話題へ。そして、松戸の将来をいつも心配されていた。フェイスブックの故人のページをのぞくと、多くの書き込みがあった。その書き込みを読むだけでも、故人がいかに人に情けをかけてこられたか、慕われていたかがよくわかる。私の知らない故人の活躍の姿もかいま見られた▼葬儀が終わった今も実感がなく、お店に行けば、あの明るい笑顔と声が待っているような気がしてならない。椎名さん、寂しくて、悲しくて、しかたがないよ。心よりご冥福をお祈りいたします。

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2011年(平成23年)12月25日《第748号》

北朝鮮の金正日総書記が死んだ▼ナチスドイツのヒトラーを筆頭に、ルーマニアのチャウシェスク、イラクのフセイン、リビアのカダフィと、今も昔も独裁者の最期は哀れなものが多い。しかし、旧ソ連のスターリンや今回の金正日のように、天寿を全うする場合もある。粛清や虐殺、圧政で多くの罪なき命を奪った独裁者が、苦しみもなく死んでいくのは、なんだか不公平に思える▼一説には、この不公平感を埋めるために宗教は生まれた、という。善良な人が苦しみながら死んでいく一方で、極悪非道な人間が最期まで報いを受けずに安らかな死を迎える。善人は天国に行って極楽に暮らし、悪人は地獄に落ちて苦しむ。ちゃんとバランスはとれている…。こうでも考えなければ、収まりがつかないほど、現実は不公平なのだ▼一方で、人間は結局プラスマイナス0である、とも思う。勉強や仕事で楽をすれば、後に必ず痛い目にあう。子どもの時に病で苦しんだ人は、健康に留意するようになる。成人してからの大病のほうが、実はやっかいだ▼子育てで大変な思いをした人は、いつか子どもに助けられる日がくるだろう。私の場合は猫だ。動物は正直なもので、愛情をかけた分だけ愛情を返してくれる。助けられること、しばしばである。

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2011年(平成23年)11月27日《第747号》

2007年の暮れに松戸市内の古寺を訪ね歩いてから4年、東葛の寺社めぐりが終わった。松戸、柏、市川、野田、流山、我孫子、鎌ヶ谷で歩いた寺社は約800▼各市に特徴があった。旧沼南町は、鳥見神社と香取神社が多かったが、流山は浅間神社が目に付いた。一般的に多いのは稲荷神社で、この地域が農村だった証だろう。名もない弁天様や小さな祠など、地図にも載っていないお宮を見つけるのが一つの楽しみとなっていたが、小さな発見がないかわりに、大伽藍が多かったのが市川▼神社のほうが古いものが残っていることが多かった。明治初期の廃仏毀釈にはじまり、敗戦まで神社のほうが優遇されてきたという歴史も背景に。例外は市川と旧沼南町で、寺院に見どころが多かった▼寺と神社はペアで存在することが多い。寺の境内にも小さなお宮があり、静かに手を合わせるべきか、柏手を打つべきか、しばしば迷った。この国の自然な信仰のありかたは、やはり神仏習合で、神も仏も混在しているのが普通なのだ▼若いころは、日本人のあいまいさの象徴のように思えたが、今は「寛容」として映る。グローバル化の名のもと、なんでもはっきり白黒をつけたがる世界の風潮に、疲れのようなものを感じているからかもしれない。

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2011年(平成23年)10月23日《第746号》

NHKの視点・論点を見た。論者は京都大学准教授の中野剛志氏。テーマは「TPP(環太平洋経済連携協定)参加の是非」▼中野氏は明確に反対。農業が盛んな東北の復興を妨げる上に日本には何のメリットもない、という。日本が参加した場合の各国のGDPシェアは、米国が70%、日本が20%、オーストラリアが4%、その他の国が4%と、実質日本が輸出できる国は米国しかない。しかし、米国内での自動車などの関税はもともと低く、関税が0になっても、今の円高はその利点をはるかに上回る▼不況で米国民の消費力も落ちている。輸出は伸びず、食糧自給率は落ち、デフレが酷くなる。TPPには、福祉や、保険、金融などの分野も含まれる。米国の狙いは日本の保険制度にある、と▼参加しないと日本は世界に乗り遅れる。なんとなくそう思っていた。しかし、農業VS工業、鎖国か開国か、といった単純な話ではなさそうだ。メリットがないなら、野田首相や経済界が前のめりなのはなぜだろう▼あいつぐ市民の高放射線地域発見のニュースを見ても、情報は待っているだけでは手に入らない、求める人のもとに集まる、と感じる▼TPPも原発も私たちの将来に大きくかかわる問題。「知る努力」と「考える力」が必要だ。

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2011年(平成23年)9月25日《第745号》

子どもの頃ゴジラよりもガメラが好きだった。先日、ケーブルテレビで久しぶりにガメラを見た。「平成3部作」と呼ばれる作品群の最初で、1995年の作品だが、現代の問題を言い当てているようで、興味深かった▼翼竜のような怪獣ギャオスとガメラが日本を舞台に戦う。ギャオスもガメラもアトランティスのような1万年以上前の超古代文明が生み出したという設定。遺伝子操作で生まれた、生物兵器なのだろう。古代人はギャオスを兵器として生み出したが、使いこなせずに滅亡の危機に。あわててガメラを造り、ギャオスに対抗しようとしたが、時すでに遅く、滅んでしまう▼古代人もずいぶん厄介なものを残してくれた、と憤る女性に対して、傍らの男性が、ぼくたちも厄介なものを未来に残している、と話す場面がある。彼が言っているのは核物質のことだ。自然に無害化するには数万年の時を要する▼政府はギャオスの捕獲を試みるが、多くの犠牲者が出てしまう。あわてて方針を転換して攻撃をしかけるが、自衛隊でも歯が立たない。最後は古代人のように、ガメラに希望を託すことに。最悪の事態を想定すべきなのに、認識が甘く、行き当たりばったりの対応なのだ▼これまた、「今」を見ているようで、そら恐ろしい。

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2011年(平成23年)8月28日《第744号》

先月24日ばあちゃんが亡くなった。98歳の大往生だった▼私の母方の祖母の姉にあたる人。私は子供のころ体が弱くて、2歳から小学校2年まで入退院を繰り返していたが、共働きの両親に代わって、私の面倒をよく見てくれた▼我が家は母が代表で葬式に行くので、あなたは来なくていい、と言われたのだが、どうにも居ても立っても居られず、結局福岡県の筑前岩屋まで葬儀に出かけた▼ばあちゃんは、満州で終戦を迎え、子を連れて命からがら逃げてきた。過酷な逃避行で歯がボロボロになり、若いころから総入れ歯だった。夫は戦死している▼葬儀はばあちゃんの家の座敷で行われた。従妹たちとプロレスごっこをして、ばあちゃんにしかられた座敷だ。元気なうちに自分で京都までもらいにいったという戒名が位牌に書かれていた▼2年前に会った時は、ボケていて私のことも分からず、容貌も変わり、正直ショックだった。まだしっかりしていた7年前に会った時が、ばあちゃんとの別れになってしまった気がした。亡くなった人は天国で過去の記憶を取り戻すのだろうか▼火葬の後、私が遺灰の入った骨壺を抱いて家まで戻った。余熱で温かい白い骨壺を抱いていると、腕の中にばあちゃんの温もりが伝わってくるような気がした。

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2011年(平成23年)7月24日《第743号》

節電の夏ということで、今年の夏は窓を開けて寝ている▼2階で風が通るので気持ちがいい。蒸し暑いときは扇風機をつける。クーラーを使わないように我慢している、というよりは、もともとこの方が好きなのだ。昨年の夏は体が弱い猫がいた。クーラーもその子のために買ったもの。暮れに他界したので、今夏は初盆である▼夏が来る前に網戸を修理しなければ、と考えていたが、ボヤボヤしているうちに夏になってしまった▼網戸がいっせいに使えなくなったのは3年前。元気な子猫の姉妹がうちに来た夏のこと。経年劣化でもろくなっていたところに、面白がって爪をかけて網にのぼるもんだから、みんな破れてしまった▼しかし、ノーマットをつけているせいで、蚊が来ないのか、来ても死ぬのか、蚊に悩まされたことがない。見えない網戸のようである▼これが私の田舎だったら、と考えると、恐ろしいことになる。電灯の光に虫たちが吸い寄せられ、家の中が虫だらけに▼いつの間にか、蚊やゴキブリなど害虫のことだけを考えていた。窓を開けて寝ても、虫が全然入ってこない今の生活。それだけ、私の周りには自然がないということなのだ。都会の生活に慣れて、すっかり忘れていたが、ある意味気持ちの悪いことでもある。

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2011年(平成23年)6月26日《第742号》

我が家には3匹の猫がいるが4匹目の猫、かえでがいたころの話▼瀕死の状態で道で拾われたかえでは、食も細く、エイズキャリアーで体が弱かった。病院通いが常で、その日は偶然、さくらも連れて病院に来ていた。さくらは、拾われたときに目をウイルス感染で悪くしていたが、食欲旺盛で我が家でも一番大きな猫だ。度胸満点で、物おじせず、人なつこいので、病院でも先生や看護師さんにかわいがられていた。キャリーバッグが1つしかないので、さくらには散歩用のひもをつけていた▼猫の血液検査は、太い血管が通っている首筋に針を刺す。かえでは病院が大嫌いで、ウギャウギャ言いながら抵抗するので、先生と看護師さんに抑えつけられていた。先生がかえでの首筋に針を刺そうとした瞬間、「ギャーッ」と今度は先生が悲鳴をあげた。見ると、さくらが思いっきり先生の膝に爪を立てていた▼かえでのただならぬ様子に、いじめられていると思ったのだろう。さくらは先生に一撃を与えた後は、なにくわぬ顔で診察室の隅にいた。痛い思いをした先生には申し訳ないが、「さくら、男前だなぁ」と感心した次第(さくらは女の子だけど)▼かえでは、昨年暮れに他界したが、猫にも家族愛があるのだなぁ、と感じた出来事だった。

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2011年(平成23年)5月22日《第741号》

寺社めぐりをする時は、書店で購入した地図と県がまとめた寺社のリスト、携帯のナビを頼りに取材する。確認できる寺社には全て足を運び、特別有名ではなくても私が面白いと思ったところを優先的に紹介する。県のリストや地図にも載っていない寺社にも行くので、当初の予定より多くの寺社を歩く▼地図を頼りに歩いていくと、どこにも寺社らしきものがない、ということがある。今回もある神社を探していて、携帯のナビで確認すると、既に神社の中にいることになっていた。そこは大きな農家の庭先で、農作業をしていたおばあさんに聞いたところ、「神社なんて聞いたことがない」という▼地図会社の社員は、定期的に実際に現地を歩いて地図情報を更新していく、と聞いたことがある。大きな農家であれば、きのうきょうここに越したわけではあるまい。いったいどんな経緯で地図情報は違ったのか。単なるケアレスミスか、なにか深い歴史上の物語があるのか▼寺の名前が明らかに違っている場合もある。思わず見落としてしまいそうなほど小さな祠が「○○神社」と堂々と地図に載っているかと思えば、そこそこの大きさの神社の記載がない場合もある。どのような基準で、載せたり載せなかったりするのか、謎である。

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2011年(平成23年)4月24日《第740号》

懇意にしている人たちとお花見をした▼それぞれの都合で集合が夕方になり、夕闇迫る中を松戸駅周辺の公園や松戸神社などを見て歩いた。ちょうど見ごろの日曜日。例年なら花見客でにぎわうはずだが、宴を催す人はちらほら見かける程度。軽やかな春は、どこか重苦しい空気に包まれている▼暗くなってきたところで、駅前の居酒屋へ。せめてもの思いで、東北のお酒で乾杯した▼翌日、坂川沿いを歩いていると、あちこちでバシャバシャと水をはねる音が。通りがかった親子連れなど数人が、足を止めて水面を見ていた▼「産卵かな。雌のあとを雄が追いかけているみたい」。若いお母さんが言うように、3〜4尾の鯉が身体をすりあわせるように群れて泳ぎ、時おり激しく体をくねらせている▼古ヶ崎浄化施設からの浄化水の循環で、鮎が棲むほど美しくなった坂川だが、この日は水量も少なく、汚くにごっていた。節電のため、ポンプの稼働を制限しているためだという。もともと、人工心肺か人工透析のような仕組みできれいになった川だ。電力がなければ機能しない。淀んだ水を好む鯉は平気だが、清流に棲む鮎には厳しい環境だ▼人々の想いとは裏腹に、春は今年もめぐりきた。鯉の雄々しい生命力のように、この国も復興したい。

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2011年(平成23年)3月27日《第739号》

震災発生時、私は上野行きの電車の車中、北千住駅にいた。経験したこともない大きな揺れに、これは普通ではない、と感じた▼駅員の指示で駅構内から避難させられたが、ここからどうしていいものか。しかたなく当初の目的地だった秋葉原に向け歩くことに。携帯がつながらないので、公衆電話に並ぶ人、早くも歩いて帰宅を始めた人たちとすれ違う▼ずっと携帯でラジオを聴いていたお陰で、ずいぶん心強かった。JR線が終日運休になったことも、政府が無理に歩いて帰らないよう呼びかけていることも分かった▼結局、浅草の近くに住む友人を頼り、バイクで松戸まで送ってもらった。国道6号線は大渋滞。歩道も歩いて帰宅する人であふれていた▼それから数日間、テレビは地震発生直後の恐ろしい津波の映像を繰り返し流し続けた。他に映像がないせいもあるのだろうが、さすがに気持ちが滅入る▼ラジオをつけると、被災者に届くことを願って「上を向いて歩こう」や、被災地や、報道特番で好きな番組が見られない全国の子どもたちに向けて、「アンパンマン」や「ドラえもん」などのアニメソングを流している▼ホッと救われるような気持ちになった。ラジオというメディアの優しさ、温かさ、近さを感じた2週間だった。

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2011年(平成23年)2月27日《第738号》

学生のころ、就職活動をしていて一番困ったのは、年齢制限があることだった▼子どものころ身体が弱かったので、小学校に入学するのが1年遅れた。大学に入るのに2年浪人したので、都合3浪と同じになってしまう。出版社を中心にまわっていたが、2浪までは認めても、3浪以上は受験資格がない会社が多かった▼ある有名な出版社に電話したことがある。「3浪の歳だが、病気でという理由。受験してもいいか」。電話口に出た女性の言葉を今でも覚えている。「ウチは中途採用もしている。本当に入りたいなら、他の会社で力をつけてから来なさい」▼自分の覚悟を試されているような気がした。私はそれまで、身体が弱かったことを、なにかと自分への言い訳にしてきたのだ。今の会社に入って数年がたったころ、気持ちに変化が起きた▼取材で出会う人は、普通の人とは違う経験をしている人が多い。身体に障害があったり、家庭環境に恵まれなかったり。私よりもずっと難しい状況の中で、頑張っている人たちだ▼「なんて自分は恵まれているんだろう」と思うようになった。不運を数えるのではなく、幸運を数えれば、両手いっぱいにあった。足りているのに、足りないと思っていた。少しは大人になれた、ということか。

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2011年(平成23年)2月13日《第737号》

「ひなげしの小径」の歌碑に書を提供した書家のなかに、知り合いの方がいた。昔取材させていただいた方の奥様で、おそらくまだ50代。書家の先生方のなかでは一番若いのではないか。除幕式は欠席されたが、ご主人と娘さんが来ていた▼3人で歌碑を囲む。赤御影石に刻まれた書は、私たちが死んだ後も、ずっと残るのだろう。すごいなぁ、と思う。それは、与謝野晶子、鉄幹夫妻の歌も同じことで、芸術は時を超える▼伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を初めて読んだ時にも同じことを感じた。恥ずかしながら、涙が止まらなかった。明治時代に書かれた小説に、こんなに感動するとは、自分でも不思議だった。もともと歌人で、夏目漱石に評価された左千夫の文章は、詩的で美しい▼何度も映画化され、時のアイドルが主演したりしたから、作品自体は有名である。しかし、松戸の矢切が舞台になっていることは、あまり知られていない。映画では、どの作品も設定やロケ地を変えて撮られている。都市化が進む松戸では、撮影できないと判断されたのかもしれない▼それでも、別れのシーンは「矢切の渡し」でなければならないし、「野菊の墓」は市川になければならない。純粋に作品のファンとしては、そう思うのだが。

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2011年(平成23年)1月23日《第736号》

この新聞の締め切りの最中に、母が心臓の手術を受けるという電話が、九州の父から来た。73歳になる母は、病気らしい病気をしたことがなく、「100歳まで生きる」と豪語していた。寝耳に水だった▼息が切れるというので、地元の医者に診せたところ、県都にある大きな病院に救急車で1時間以上かけて搬送され、緊急入院となった。病名は難しくて覚えられなかったが、ペースメーカーを埋め込むらしい▼「心配いらない。大丈夫」と父に言われたものの、落ち着かない。もしもの場合、どう段取りをつけたら、すぐ帰られるだろうか。校正まで終われば、あとはチューニングを徹夜で書いて、朝一番の便に乗れば、午前中には病院に着く…。「親孝行したい時に親はなし」という嫌な言葉が頭をよぎったりする▼母は日ごろから、親よりも絶対に先に逝くな、と私に話していた。「あんた、それはねえで。あんたの親(ばあちゃん)だって、まだ生きちょるじゃねえな。あんたこそ先に逝きなさんなえ」と私は心の中で語りかける。順番を守ること。本当に幸運なことだと思うが、私の家族で順番を間違えた人はまだいない。高齢社会では、難しいことになりつつある▼20日の夜、父から、「無事に手術が終わった」との報せが入った。

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2011年(平成23年)1月9日《第734・735号》

子どもの頃、テレビドラマを見ながら、大人になったらあんな風にお酒を飲みたいな、と考えていた。ちょうど「相棒」で右京さんが通う、元妻の小料理屋みたいな感じだ▼社会人になってみると、意外と雰囲気のいい屋台も居酒屋も見つからない。ドラマみたいに都合のいい場所に屋台なんかないし、料理がうまく、主人も悪くないとしても、常連さんがひとクセあったりと、なかなかうまくいかない▼ご主人と、奥さんの二人でやっている、最近よく行く居酒屋がある。料理がうまい。常連さんとの距離も悪くない。それにしても、この居心地の良さは何だろうと考え、気がついたのが、ご主人が聞き上手だということだ▼人間にとって会話は大切だ。取材から帰って、その内容を同僚に話すうちに、頭の中で原稿がほぼできてしまうことがある。人に話すことで、自分の気がつかなかった点に気がついたり、自分の思いを再確認できる▼悩みを話しても、問題は何も解決しないが、少し心が軽くなって、また一歩歩き出すことができる。家族でも仕事の関係者でもないから、話せることもある▼客が私しかいない時は聞き上手のご主人を独占することができる。お店にとっては、よくないことなのかもしれないが、私にとっては貴重な時間である。

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2010年(平成22年)12月12日《第733号》

個人的に今年を振り返ると、実に失敗の多い年であった。特に猫に関して▼以前からウチに来ている野良猫4兄弟姉妹がおり、早く避妊去勢手術をしないと大変なことになるなぁ、と思っていた。知り合いの動物愛護団体の人に捕獲器を借り、チャンスをうかがっていたところ、すでに1匹のお腹が大きいことに気がついた▼結局子どもが生まれ、なぜか、そのうちの1匹を親が育児放棄しており、庭の片隅に転がっていた。保護をしたものの、育て方もよく分からず、結局死なせてしまった▼その子の兄弟と思われる2匹の元気な子猫の姿を後に見かけたが、いつの間にかいなくなってしまった。誰かにつかまって、動物愛護センターに送られ、殺処分されたのかもしれない。見かけた時に保護していれば、と後悔している▼4兄弟姉妹の避妊去勢手で、最初の1匹の時に大失敗をした。病院の前で、カゴが壊れ、逃げてしまったのだ。探したが、いまだに見つからない。見知らぬ土地で、今ごろどうしているだろうか、と心配している▼そして今月、2年前に道で瀕死の状態だったところを拾った猫が天国に行ってしまった。まだ2歳数か月だが、身体が弱く、エイズのキャリアだった。もっとできることがあったのではと、悔やんでいる。

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2010年(平成22年)11月28日《第732号》

きょうで最終回なんだなぁ。なにがって、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が、である。もともと主演の福山雅治さんが好きだったこともあり、始まる前から注目していたが、期待以上にいいドラマだった▼ところで、坂本龍馬という人が、これほど有名になったのはいつごろからなのだろう。私が子どもの頃(昭和40年代)、幕末・維新の英雄というのは、お札の肖像になるような人たちだったと思う。龍馬の名前はあまり聞かなかった▼私が生まれる前後に司馬遼太郎が代表作「竜馬がゆく」を執筆している。司馬さんは、資料を調べるうち、どうも教科書的明治の英雄だけでは、パズルのピースが埋まらない、ということに気がついたのだろうか。幕末の偉大なる黒子に徹した龍馬だから、そう簡単に見つかるはずがない▼時々、「ああ、ここにも龍馬がいるな」と思うことがある。生活や仕事の、さまざまな場面に「この人がいなかったら、変わらなかった、できなかった」ということがある▼志を遂げるために、必要とあらば宿敵をも味方につける。人知れず頑張っている、そういう人たちの存在は、表に出ることはないし、ましてや活字になったりはしない。世の中は、そんな影の龍馬たちによって、形作られているのかもしれない。

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2010年(平成22年)11月14日《第731号》

俳優で演出家の野沢那智さんが亡くなられた。72歳▼訃報では「アラン・ドロンの吹き替えを…」と紹介されていたが、私にとっては「ナッチャコパック」のナッちゃんだ▼TBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」の金曜のパーソナリティをチャコこと白石冬美さんと担当していた。67年から15年続いた番組は82年に終了。私は高校生で最後の数年を聴いた▼寄せられたハガキを読むというシンプルな内容。話題は恋愛や猥談から戦争や平和を正面からとらえたものまで。「アンポ」(安保)という言葉を初めて知ったのもこの番組だった。ハガキがハガキを呼び、話題が深まっていく。機動隊と激突した元学生からの生々しい手紙に衝撃を受けた。まだまだハガキが来るなか、「アンポについてはまたやります!」と言って、ナッちゃんは一旦話を切った。番組が終わったことで、それきりに▼私が早くから戦争や平和、社会や権力について考えるようになったのは、この番組の影響が大きい。今の仕事にもつながっているかもしれない。番組が終わった時、ナッちゃんは40代半ば。今の私と同じくらいだ。私は誰かに何かを残すような仕事が出来ているだろうか▼ご冥福を。ありがとうの言葉を添えさせていただきたい。

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