松戸周辺の城跡を訪ねて(8)

水運を利用した大津川流域の城

前回(昨年10月23日発行。第806号)は大津川流域にある殿山城、大井追花城、戸張城、戸張用替城、そして、大津川が流れ込む手賀沼畔にある箕輪城、箕輪如意寺城を訪ねた。今回は、大津川のさらに上流にある高柳城、高柳谷中台城の2城と、金山落流域にある藤ヶ谷中上城、藤ヶ谷城、金山寺山城を訪ねた。金山落は、下手賀沼から流れ出る用水路。この3城のある地域では、金山落が柏市と白井市の市境を流れている。大津川、金山落のある低地に面した舌状台地上に城域があるという点が、いずれの城にも共通した特徴だ。

善龍寺の五葉松(高柳城跡)の写真▲善龍寺の五葉松(高柳城跡) 大津川流域の城の周辺地図

柏市 高柳城

県道8号線(船橋我孫子線)は馬洗戸のバス停から北西方向に緩やかに傾斜してゆく。この県道を挟んで両側に城域が広がっていたという。

東側の林の中には、土塁・空堀跡があるという。林の中をのぞいていみると、沼南かたくりの会というところが立てた「野草保護地」の看板が見えた。おそらく私有地なので、歩き回ることは避けたが、土塁らしき盛土も見えた。

西側の台地の麓(ふもと)に天台宗高柳山善龍寺がある。この敷地は堂屋敷と呼ばれていたらしく、この一帯が城主の館、あるいは屋敷が立ち並ぶ根古屋だったのではないかという。大津川も近く、水運を利用するための船着場もあったかもしれない。

応永年間、つまり室町幕府の3代将軍足利義満が出家したころの「相馬文書」からは、高柳村は相馬氏の領地だったことがうかがわれる。しかし、戦国時代には後に勢力を伸ばした小金城主高城氏の属城であったと思われる。

 

左の林内に土塁跡のように見える盛土の写真▲県道8号線の下り坂。左の林内に土塁跡のように見える盛土があった(高柳城) 高柳城跡の城域の一部にあると考えられる善龍寺の写真▲高柳城跡の城域の一部にあると考えられる善龍寺

なお、善龍寺には柏市天然記念物の五葉松があり、見事な枝ぶりを見せている。同寺の記録によれば、幕末の文久元年(1861)に上野寛永寺の輪王寺宮公現法親王より下賜されたものを、当時の住職法師泰然がここに植樹したという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大津川より高柳谷中台城跡のある舌状台地を望む写真▲大津川より高柳谷中台城跡のある舌状台地を望む 大津川から高柳谷中台城跡に至る県道の坂道の途中にある青面金剛などの石像の写真▲大津川から高柳谷中台城跡に至る県道の坂道の途中にある青面金剛などの石像

柏市 高柳谷中台城

県道8号線(船橋我孫子線)を南に向かって、280号線(白井流山線)と交差するあたりにあったといわれる。開発で遺構がほとんど残っていないため、詳しいことはわからない。高柳城と同じく、室町時代のはじめには相馬氏に属していたものが、戦国時代には高城氏の配下に入ったものと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤ヶ谷中上城跡を貫く道路の写真▲藤ヶ谷中上城跡を貫く道路

柏市 藤ヶ谷中上城

県道280号線(白井流山線)を東(白井方面)に向かうと、柏市と白井市の市境の手前に矢の橋のバス停があり、ここを左に折れると、舌状台地を登る急な坂道になる。この道を挟んで両側に城域が広がっていたというが、開発により、遺構のほとんどがなくなっているという。市境には金山落という、下手賀沼から流れ出た用水路が南北に流れている。

 

 

香取神社(藤ヶ谷城跡)の写真▲香取神社(藤ヶ谷城跡)

柏市 藤ヶ谷城

半島台地を利用した長さ約200メートル、幅約100メートルの長方形の形に城跡がある。土塁・空堀跡のほかに櫓台的遺構などがあったというが、現在は文京区立柏学園の校舎が建っており、中を確認することはできなかった。この台地には弥生式住居跡もあるという。

『東葛飾郡誌』には、「東南面一帯水面(大津川流域)に面し、北面又谷津田あり、標高二十米の突出丘陵にして現今土塁の形状僅に存して又空濠あれども甚深からず、一隅に石祠あり、石尊大権現と刻せり、里伝に云ふ、戸張弾正忠此に居れりと」と書かれているという。戸張弾正忠は相馬師常の子・戸張八郎行常の後裔と伝えられている。

 

円林寺山門(金山寺山城跡)の写真▲円林寺山門(金山寺山城跡) 鳥見神社(金山寺山城跡)の写真▲鳥見神社(金山寺山城跡) 空堀の跡の写真▲空堀の跡のようにも見える円林寺前の道

柏市 金山寺山城

藤ヶ谷城から金山落沿いに北上すると、金山寺山城がある。

現在、天台宗円林寺と鳥見神社がある舌状台地と道を挟んで北側の集落あたりが、城域だったらしい。

円林寺の境内には、土塁跡と思われる盛土も見られる。また、円林寺境内と隣接する鳥見神社境内が一段高くなっており、城の郭(「かく」あるいは「くるわ」と読み、曲輪とも書く。城郭の小区画を示し、本丸、二の丸などと呼ばれるようになった)のようにも見える。円林寺南側の道は切り通しの坂道で空堀の跡のようにも見える。

北側の集落が根古屋だったと考えられるという。

 

郭の跡の写真▲鳥見神社(左)と円林寺(右)の境内は一段高くなっており、郭の跡のようにも見える(金山寺山城跡) 土塁跡の写真▲円林寺境内には土塁跡のように見える盛土がある(金山寺山城跡)

金山村も鎌倉時代末期から室町時代のはじめには、相馬岡田氏の所領だった。最初は相馬岡田氏の居館としてつくられ、戦国時代には高城氏の戦国城郭として整備されたのかもしれない。

※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方著・崙書房出版)