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「過去は未来によって変えられる」せつない大人の恋

マチネの終わりに 平野 啓一郎 著

マチネの終わりにの写真毎日新聞出版 1700円(税別)

天才肌のギタリスト蒔野聡史は、コンサートの打ち上げで出会った小峰洋子に強く惹かれる。

蒔野は38歳。洋子は2歳年上の40歳。洋子は通信社の記者で、この後イラクへの赴任が決まっている。銃弾が飛び交う、凄惨な現場に戻る前に「美しいもの」に触れておきたかった。

蒔野が洋子に興味を持ったのは、最初は洋子が有名なクロアチア人映画監督ソリッチの娘だということだった。ソリッチの代表作は母国での戦争を題材に、戦争とはなにか、を観る者に深く問いかけてくるものだ。洋子は日本人の母親との間に生まれたハーフである。母親は洋子を連れて長いあいだ海外で暮らしていたが、10年前に生まれ故郷の長崎に戻ってきた。洋子自身もジュネーヴで育ち、オックスフォードで文学を学び、コロンビアの大学院に進学したという華々しい経歴を持っているが、幼い頃は父親の母語が話せず、唯一の共通言語である英語も話せなかったために父親とのコミュニケーションが取れず、いつも父の問いかけに微笑むしかなかった少女だ。そのうち、父は母と離婚してしまった。今は父に会うこともあるが、自分は捨てられたのではないかという、仄かな不安が心の片隅にある。そして、母も被爆しているはずなのに、そのことを洋子には話さない。母が長く海外で暮らしていたのには、なにか原爆投下が関係していたのか。洋子も被爆二世で、いつか体に不調が出るのではないか、という不安もある。

蒔野が洋子に最初に出会った時、当然、洋子にそんな複雑な事情があることは知る由もなかったが、洋子の美しさの中に人生の強烈な陰影のようなものを感じたのではないだろうか。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

「過去は未来によって変えられる」という蒔野のこの言葉は、この作品の中で何度となく出てくる。蒔野が紡ぎ出した言葉は前向きで、どこか哲学的で、繊細である。

そんな蒔野に洋子も強く惹かれた。テロが頻発し、自分も危うく犠牲者になりかけたバグダッドで、洋子は蒔野が弾くバッハのCDを心の支えにして取材を続けた。

しかし、洋子にはアメリカ人のフィアンセがいた。蒔野も賞賛の陰で、自分の音楽に行き詰まりを感じていた。そして、不運な歯車のかみ合わせと、悪意による作為によって、二人はすれ違ってしまう。

人を好きになり、理解し、愛し合うということは、会った回数でも、時間の長さでもないのだと思う。実際に二人が共に過ごした時間というのはほんのわずかだ。それでも、お互いの心の深いところには相手がいて、常に問いかけているのである。「あなたなら、こんなとき、何を感じ、何を話しますか」と。

二人は果たして再会できるのか。

2006年から2012年までの5年半の物語である。イラク戦争、それに続く混乱とテロ、リーマンショック、東日本大震災と、その時々の出来事を織り交ぜながら物語は進んでいく。著者の文章は印象的で美しく、クラシックや小説の知識が散りばめられていて、もっと私に知識があれば、より深く味わえたのに、と少し残念に思った。