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- カテゴリ: 本よみ松よみ堂バックナンバー
- 2017年6月25日(日曜)09:00に公開
- 作者: 奥森 広治
原始、猫は神様だった。変わっていくのは常に人間の都合
虹猫喫茶店 坂井 希久子 著
私立「武蔵野獣医大学」に入学した主人公の玉置翔(かける)は、憂鬱(ゆううつ)な春を過ごしていた。旧帝大系の医学部を目指して高校の3年間と、浪人の1年間を脇目も振らず受験勉強だけに費やしたのに、センター試験で思わぬ失敗をし、私立の医学部も全滅。母親の勧めで1校だけ受けた獣医大学にだけ受かった。父親にもう1年浪人させてほしいと頼んだが、次年度の合格を信じてもらえなかった。それ以来、父親との関係はギクシャクしている。入学してみると、当然ながら周りは動物が何より好きで、夢に一歩近づいたことに胸を弾ませている学生ばかり。特に動物好きというわけでもなく、獣医になるつもりもない翔は、友達もできずに、アパートと大学を行き来するだけの毎日だった。
暇なので学生課で見つけたアルバイトは、「猫の世話をするだけの簡単なお仕事」だった。雇い主は「喫茶 虹猫」の女主人・鈴影サヨリ。サヨリは宝塚のスターのような美貌の持ち主だが、愛想がなく、人使いが荒い。そして、人間よりも、圧倒的に猫が好きというタイプ。「虹猫」は猫カフェではない。猫は「里親募集」のために店にいるだけ。猫を商売に利用するわけがない、というのがサヨリという人だ。ちなみに店名は、飼い主に愛されて死に別れた猫が虹の橋のたもとで待っているという、猫好きには有名な話に由来している。サヨリはすべての猫にそんな飼い主を見つけたいと思っている。そして、翔の仕事は「虹猫」から1キロほど離れたところにある東丸一枝という老婆の家の猫の世話だった。東丸一枝は一人暮らしの偏屈な老婆。最近ボケが酷くなって、際限なく猫が増え、その数はなんと37匹。サヨリは一枝に同情しているわけではなく、この猫屋敷の猫たちをなんとかしようとしているのだった。
梅雨の曇り空のような気分で大学1年の春を迎えた私には、なかなか共感できる書き出しだった。獣医学部を舞台にした学園ものかと思ったが、話の中心は「喫茶 虹猫」で起きる様々な出来事である。私は、折に触れ、動物愛護についても取材してきたので、こちらにも考えさせられる部分がずいぶんとあった。
ただ、作品の雰囲気は、ライトノベルのように軽やかで、読みやすい。若い読者にも読んで考えてもらいたいという著者の思いもあるのかもしれない。
登場する猫たちの描写も目に映るようで、思わず笑ってしまう。
私の家にも4匹の猫がいるが、松戸に来て初めて猫を飼い始めた時に、譲渡された相手から完全室内飼いをお願いされたのには驚いた。私は田舎の感覚で、(不妊去勢手術は当然としても)猫は家の中と外とを自由に行き来するものだと思っていた。田んぼの中の一軒家みたいな私の実家と、人口が密集している松戸では猫を飼う常識が違うのだ。
ちなみに、主人公の翔は福岡で、同級生の「桜子」は佐賀なので、私の田舎と近い。
この作品には、常連客のヒカルという天使のような美青年や、サヨリに一方的に好意を寄せている相田獣医師、地域猫の会を主催し、ちょっと押し付けがましい中年女性・伊澤など、個性的なキャラクターが登場して、にぎやかだ。
サヨリと伊澤は同じ方向を向いているはずなのだが、サヨリは一方的に伊澤を嫌い、その活動を偽善だとまで言う。
妊娠してしまった猫を堕胎させるかどうか。堕胎を主張する伊澤に対する、サヨリのセリフ。
「原始、猫は神様だった」
「古代エジプト時代、猫は繁殖の女神として崇められていた。猫を殺した者は故意でなくても死刑にされたそうだ。またある時猫は、悪魔の手先だった。中世ヨーロッパでは数多くの猫が虐待され、火あぶりになった」
「そして現代日本の都市部では、猫の生殖能力を奪うことが社会正義になっている。猫自身は一万年前からなにも変わらないのに、不思議なものだな。変わってゆくのは常に人間だ」
年間に約10万匹殺処分されるうちの、約8割以上が仔猫。不幸な猫を増やしたくないと願う人にとって、不妊去勢手術は飼い主の責任として常識になっている。地域猫活動はその範囲を野良猫にまで広げ、その猫一代の命を全うさせようという活動だ。しかし、この場面で問題になったのは、妊娠した猫を堕胎させるのは、仔猫を殺処分するのと変わりないのではないか、ということ。
翔はその後、なんとなく気になって人間の人工妊娠中絶の件数を調べてみた。平成25年度は18万6253件。猫の殺処分より圧倒的に多い。
翔は「命ってのは、どこから意味を持つんだろう」と考える。
主人公の翔を、偏差値のことしか頭になかった受験生で、特に動物が好きでもないのに獣医大学に入った学生という設定にしたのには意味があるのだろう。物語は、翔の目線で進み、客観性が生まれる。
この本は、私が意識の端に追いやってきた問題を、再び思い起こさせてくれた。