松戸の城跡を訪ねて(1)

 貴族の中から武士が生まれた平安末期から戦国時代にかけて、松戸は桓武平氏の名門・千葉氏が統べる地となった。戦国時代には大きな合戦の舞台となり、高城氏が小金城を拠点に名声を得た。市内には千葉氏、高城氏が建てた城がいくつもあるが、昭和30年代以降の急激な宅地開発などにより、その遺構を残す城郭は少ない。わずかに残るその痕跡を訪ねた。

市内の城跡分布図

鎌倉幕府創設に貢献した千葉氏

 戦国時代の松戸の武将といえば、大谷口小金城の高城氏だが、高城氏は平安時代から下総国(千葉県の北半分と茨城県の南の一部)に定着した千葉氏の一族だと言われている。

 千葉氏は桓武平氏である。桓武天皇のひ孫の高望(たかもち)が平(たいら)の姓を受けて上総国に定着した。高望にはたくさんの子がいたが、長男の国香の子孫が平安時代末に中央(京都)で権勢をふるうことになる清盛である。三男の良将の子が天慶の乱(935年~940年)を起こし、平親王を名乗った平将門。五男の良文の子孫が千葉氏となる。市川や沼南、我孫子を散策すると将門にまつわる伝承が残っているが、市内の紙敷にも上屋敷があったとする説がある。紙敷は上屋敷が変化して紙敷という地名になったというのである。

 良文の孫の平忠常も1027年に乱を起こして上総の国府(市原市)を落とし、翌年には安房の国司を殺してしまった。乱は下総・上総・安房の房総半島全体に広がり、これらの国々は荒廃した。朝廷は追討軍を出したが平定できず、追補吏として源頼信が派遣され、忠常も降伏した。

 

下総と周辺の国図▲下総と周辺の国

 忠常の子、常将も罪に問われるはずだったが、源頼信のとりなしで許された。奥州で起こった前九年の役(1056年)や後三年の役(1083年)に源頼信の子・頼義と義家とともに常将とその子・常長らが従軍して活躍するのは、このような縁による。

 後に鎌倉幕府を開く源頼朝が石橋山の戦い(1180年)で敗れて房総に逃げてきた時に常将の子孫・千葉常胤が助けたのも、源氏から受けた恩を返そうとしたからだという。

 常胤は頼朝の幕府創設にも大きく貢献し、その6人の子どもを含めて陸奥・常陸・上総・武蔵・相模・美濃・肥前・薩摩・大隅などに所領を与えられた。

 

東葛の覇者、小金城の高城氏

小金周辺図▲小金周辺図

 足利尊氏の室町幕府が京都にでき、室町時代に入ると幕府は尊氏の三男基氏を関東管領として鎌倉に置いた。鎌倉府の公方が四代目の持氏になると家臣の統率がとれず、管領の上杉氏憲と対立した。この争いに千葉氏も巻き込まれ、一族同士で戦うなどして千葉氏は力を失っていった。

 このころから松戸地域で力を持ったのが、千葉氏支族の原氏。そして戦国時代直前から戦国時代が終わるまで、原氏の一族の高城氏の時代となる。

 千葉氏は九州の肥前国(佐賀県)にも所領があったが、高城氏の祖はここに赴任していた。肥前国の高城村に居住したので、高城を名乗るようになったという説がある。

 

小金城復元略絵図▲小金城復元略絵図

 やがて、松戸市栗ヶ沢の地に所領を得て、1418年(1460年という説もあり)に安蒜、鈴木、座間、田口、血矢、田嶋、池田、小川、斉藤、藤田など多くの家臣を連れて栗ヶ沢に入った。

 高城胤忠は1462年に根木内城という本格的な城を築いて居城とした。さらに、胤忠の弟・胤吉が家督を継ぐと、根木内城が手狭になったことから大谷口に小金城を新たに築いた。1530年に着工し1537年に完成した。面積約49ヘクタールという広大な城で、人々は「開花城」と呼んだという。その名前には高城氏の目覚ましい発展の意味も込められていた。小金城築城と同時に高城氏は栗ヶ沢にあった菩提寺の廣徳寺を北隣の中金杉台地に移した。廣徳寺境内にはこの時に移されたという弁財天も祀られている。また、根木内にあった祈願所の大勝院を城内鬼門の位置に、東漸寺を城の東方、小金町に移した。

 

根木内歴史公園全景の写真▲根木内歴史公園全景(根木内城の一部)

 1538年に相模台を中心に行われた相模台の合戦では、小田原の北条氏綱と氏康の七千騎と安房や上総で勢力を強めていた里見義尭(よしたか)と小弓公方足利義明の軍が戦ったというもので、高城氏は北条氏に味方して奮戦。勝利を得た。相模台の聖徳大学構内にある経世塚は、義明らこの時の戦死者を祀ったものだという。 また、1564年の国府台(鴻之台、高野台)の合戦では、小田原の北条氏康、氏政の軍と安房の里見義弘が矢切の台地から栗山、国府台にかけての場所で戦った。この戦でも高城氏は北条氏側について里見方を徹底的に打ちのめした。

 

根木内城の土橋の写真▲根木内城の土橋

 二つの大きな戦いで名をはせた小金城主二代目の胤辰は、1566年正月に従五位下、下野守に叙任された。その支配地域は、野田市南部から流山、柏、我孫子、沼南、松戸、市川、鎌ヶ谷、船橋市、印旛郡の一部、埼玉県三郷市、江戸川区葛西の柴崎、小松川、二之江、長嶋、堀切、立石、亀戸、牛島、茨城県牛久市、神奈川県海老名市、横浜市戸塚区などであった。したがって、この地域の城も高城氏の属城となり、その数はかなりのものであったと思われる。

 1582年に胤辰が病死すると子の胤則が11歳の若さで家督を継いだ。

 

根木内城の空堀の写真▲根木内城の空堀

 折しも豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして関東攻めに入ろうとしていたころで、1590年5月5日、小金城は矢切の渡しを渡って進軍してきた秀吉配下の浅野長吉(後の長政)軍の攻撃で落城した。その頃、城主の胤則は小田原城に籠城して湯元口を護っていたが、運よく戦後も生き延びて、京都の伏見で1603年に病没した。その遺骨は、父・胤辰とともに廣徳寺の墓所で眠っている。

 胤則の妻は柴田勝家の養女で、胤次という子がいたが、1616年に二代将軍徳川秀忠に召し出され、700石で旗本に士官した。

 小金城築城の際に移された東漸寺は砦の意味合いもあったが、第七世住職・了学は胤辰の第三子で、後に徳川家の菩提寺、芝の増上寺の第一七世住職となった。

 また、小金城を築城した胤吉の妻で胤辰の母は佐倉城主千葉昌胤の妹で、胤吉没後、髪を下して月庵桂林尼と号して、庵を建立してこもった。桂林尼の没後、同地に胤辰が建立したのが桂林寺、現在の慶林寺である。

 

根木内城

 1462年、高城胤忠により築城。

 藤川の氾濫原に向かって北東方面に突き出た舌状台地上にある。

 

小金城虎口門の写真▲小金城虎口門

 九州から栗ヶ沢に来た高城氏が、この地で初めて作った本格的な城郭。小金城に移るまで居城であった。

 城郭全体に犬走りをめぐらし、空堀と土塁によって六郭以上の郭を複雑に配し、これを土橋によって連絡し、さらに土塁には要所に展望高所を設け、西側中央部には蔀(しとみ)土居を設けている。

 城の遺構は国道6号線によって中央部が切り崩され、北側台地上は宅地となって残っていない。南側の旧水戸街道に面した台地の一部が根木内歴史公園として残されている。土塁や空堀、土橋などが復元されている。また、藤川の氾濫原も公園となっている。(根木内字城ノ内)

 

行人台城

小金城の土塁の写真▲小金城の土塁

 1462年、高城胤忠により築城。

 根木内城の東南部150mにあり、根木内城の支城と思われる。根木内城との中間に流れる藤川に向かって突き出した舌状台地上にあった。台地部には1472年に千葉孝胤と太田道灌が戦った逆井根の合戦から永正年間(1504~21年)の行人台の戦における戦死者の墳丘といわれた塚があったという。(久保平賀字行人台)

 

小金城

 高城氏の居城となった東葛地域では稀にみる大きな城だった。大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、横須賀口(西)、大谷口(南)を設け、達磨口の向かいの殿平賀台には家老など重臣を住まわせ、横須賀口にはその他の家臣を住まわせたという。現在はそのほんの一部、金杉口が大谷口歴史公園として残されている。

 

小金城の障子堀の写真▲小金城の障子堀

土塁や障子堀、畝堀、虎口(出入口)などが復元されたが、公園建設当初はあった障子のように堀の中に壁がある障子堀や洗濯板のように段がついた畝堀の様子が、風化のためなのか確認できなくなってしまっているのが残念だ。少し離れたところにある達磨口も一部が公園として保存されている。達磨口には昼間は架け渡し、夜間は回転させる木橋が造られていたといわれる。(大谷口)

 

※参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫・新人物往来社)、「松戸の発掘60年史」(松戸市立博物館)