本紙連載 根本圭助氏エッセイ

「私の昭和史」が本に

根本圭助さんが本紙に連載中の「私の昭和史」(第Ⅲ部より「昭和から平成へ」に改題)が本になりました。「忘れ得ぬ人々 思い出の風景 昭和から平成へ―私の交遊録」はハードカバー、四六版、608頁、3200円(税別)。発行は北辰堂出版(東京都新宿区。電話 03・3269・8131)。以下に記者が寄稿した「あとがき」の一部抜粋を掲載します。

根本圭助著「忘れ得ぬ人々 思い出の風景」(北辰堂出版)の写真▲根本圭助著「忘れ得ぬ人々 思い出の風景」(北辰堂出版)

根本さんに初めて会ったのは1999年の12月だったと思う。「松戸よみうり」の新年号の企画をどうしようか、と考えていて、ふと思い浮かんだのが、小松崎茂先生の未来画だった。

小松崎先生と根本さんのことを知ったのは、さらに数年前、松戸市民劇場で「東葛演劇フェスティバル」が開かれた時のことだった。野田在住の梅田宏さんという演劇人が小松崎先生を題材にした一人芝居を企画していて、このフェスティバルで上演する予定だったが、準備が間に合わず、急きょ根本さんが呼ばれて、舞台上で小松崎先生についてのトークショーを開催する運びになったのだ

私は最初、「小松崎茂」と聞いてもピンとこなかったのだが、舞台上に貼られた戦艦大和の絵を見て「ああ、あの絵の…」と思い当たった。それは子どもの頃に夢中になってつくったプラモデルの箱に描かれていた絵だった。

柏駅前の喫茶店で待ち合わせをして打ち合わせをした。根本さんは「先生はざっくばらんな人だから大丈夫ですよ」と話した。喫茶店を出て駅ビルの中の書店に行き、二人で学研から出た「小松崎茂の世界」を探した。件の本は平積みされており、本を手に根本さんは興奮気味に話し続けた。浮き沈みの激しい挿絵画家人生の中で、小松崎先生は何度目かの「再ブーム」を迎えているところだった。

 

根本圭助さんの写真▲根本圭助さん(ダガシヤダイチャンで)

私が根本さんに原稿を依頼したのは、ちょうど昭和ロマン館が㈱浅野工務店本社で再開した時だった。「今までに書いたものの焼き直しになってもかまわないので、小松崎先生と弟子時代のことを書いてください」とお願いした。これが、2004年5月9日号から翌年の6月26日号まで26回書いていただいた「私の昭和史 第Ⅰ部 異能の画家 小松崎茂と私」である。

その後「今度はまだ書いたことのない根本さんご自身の仕事と交流について書いてください」とお願いして、「私の昭和史 第Ⅱ部 忘れ得ぬ人びと 人生一期一会」が2006年8月から2010年11月まで48回、「昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても」が2011年5月から現在まで47回続いている(今回の本には昨年12月発行分までを掲載)。

新年号は特別に見開きで、カルタの話や年賀状の話を書いていただいた。小松崎先生が遺した東京の風景画と現在の東京の風景を比べてみようということで、私をカメラマンに根本さんと二人、銀座や浅草の街を歩いた思い出も忘れられない。

原稿を取りにうかがうと、私が原稿を拝読している先から、根本さんは我慢しきれないという風に、いろんな思い出話があふれてくる。「○○って知ってますか」と昔の芸能人の名前を聞かれて、「いえ、知りません」と答えるのが常である。「え!? 知らないの?」と根本さんはびっくりしたような顔をされるが、根本さんが昨日のことのように話す芸能人は、私が生まれるずっと前に活躍された方たちがほとんどである。「私の子どもの頃に流行ったアイドルって、ピンクレディーとか松田聖子ですよ?」と何度も話したが、原稿を取りにうかがうたびにまた同じことの繰り返しなのであった。