松戸周辺の城跡を訪ねて(1)

昨年、ご好評をいただいた「松戸の城跡を訪ねて」に続いて、松戸周辺の城跡を紹介します。

台地下にある佐津間城跡の説明板。台地上は住宅街の写真▲台地下にある佐津間城跡の説明板。台地上は住宅街

鎌ヶ谷市 佐津間城

江戸時代、利根川の布佐から江戸川の松戸河岸まで鮮魚を馬の背に乗せて運んだ鮮魚街道(なまかいどう)を取材した折のこと。鮮魚街道は海上自衛隊の下総航空基地の中を通っていたが、現在は通ることはできないため、迂回して基地をぐるっと周り、基地のフェンスのところから再び鮮魚街道に戻った。やがて前方に佐津間城があった小山(台地)が見えてきた。佐津間という場所は、県道を渡ればもう松戸市六実というところで、ちょうど市境にある。県道脇の大宮大神は城のある台地のふもとにあり、あるいは城の一部を成していたかもしれない。住宅街の中の小道を入り、城跡の下まで行くと、鎌ヶ谷市教育委員会が立てた説明板がある。いろいろ読んだが、この説明文が一番端的で分かりやすいので、全文を掲載させていただく。

「佐津間城跡は東側に大津川(おおつがわ)をのぞむ標高25mの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9mの比高(ひこう)がある。土塁(どるい)と空堀(からぼり)をめぐらせて、周囲を台地から遮断して曲輪(くるわ=土塁や塀などで一定区画に分けられた範囲。郭とも書く)を形成する単郭構造(たんかくこうぞう)の城跡である。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の櫓台(やぐらだい)と、その櫓台を利用した横矢構造(よこやこうぞう=侵入する敵を側面から攻撃できる構造)が確認され、曲輪の入口となる虎口(こぐち=敵の侵入に備えた城の入口。小口とも書く)の跡も残っている。また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定される。城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側(主郭)は東西21m、南北35mある。周囲には屋敷裏(やしきうら)、北根郷屋(きたねごや)、南木戸(みなみきど)などの城に関係する小字名も残っている。

 

説明板の佐津間城跡構造図▲説明板の佐津間城跡構造図 地図

築造された時期は戦国時代(16世紀中~後半頃)と推定されている。戦国時代に造られた城跡は東葛地方でも数多く確認されているが、市内で明らかに城跡として確認されているのはこの佐津間城だけである。」

この説明板は平成22年12月に立てられた比較的新しいもので、以前には古い説明板が立っていた。以前の説明には、「この城は小金の高城氏の配下の豪族の砦だったのではないかと思われる」というようなことが書いてあったが、新しい説明文では城の主(あるじ)については一切触れていない。それだけ来歴が分からない城なのである。

「東葛の中世城郭」(千野原靖方著・崙書房出版)では、「相馬文書」「本土寺過去帳」などの資料から、薩間(佐津間)村は、鎌倉時代から南北朝時代にかけては、相馬氏の支配下にあったが、館があったかどうかは分からない。戦国時代には相馬氏の力は弱まり、新興勢力の高城氏が支配していた、という。

「日本城郭体系 第6巻」(新人物往来社)では、規模が小さいことから、相馬一族が支配していたとする見解に疑問を呈している。また「城址は5aほどの一郭だけに、土塁と空堀が残っている。これが果たして城であるかどうかは疑問も残るが、付近の地名に北根郷屋があるので、城があったことは間違いないと思われる。ただ、江戸時代の小金牧にすぐ隣り合っているので、野馬囲いなどに改造されたかもしれない。現に南の大宮神社から道路に沿って北に向かう土塁は、城の遺構ではなく、明らかに野馬除け土手である」と、かなり懐疑的に書いている(松戸周辺は平安時代の昔から官製の野馬の放牧地で、特に江戸時代に入ってからは「小金牧」として整備された。野馬の逃亡を防ぐなどの目的で「野馬除け土手」「野馬土手」が各地に作られ、そのいくつかは当時の遺構として東葛地方各地に今も残っている)。

しかし、1990年度から95年度にかけて千葉県が行った調査をまとめた「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書Ⅰ ―旧下総国地域―」には、佐津間城についての記述がある。

「佐津間城跡は、大津川西側段丘上の崖縁に位置していて、この地方特有の湖沼及び河川に面したところに遺構が見られるので、特に『船舶運航』に係わった勢力による占地と考えられる。(中略)さらにここを流れる河川の名称が『大津』であることから、山王橋辺りに『河川港』の存在も十分に想定できる結果、『根小屋』・『木戸』・『港津』・『城郭』を中心とした『港津都市』の存在も考えられると言える」

 

佐津間の大宮大神の写真▲佐津間の大宮大神 道野辺の妙蓮寺の写真▲道野辺の妙蓮寺

「本城跡は、遺構の広がりから見て、『船舶運航上』の監視所的な城郭から拠点支配の城郭に改変されたものと考えられる」

河川と船舶運航の可能性に注目し、かなり力強く、そしてダイナミックに書いているのである。

城跡はそのほとんどが住宅地となっている。鎌ヶ谷市は「佐津間城跡は私有地であり、見学できる環境が整っていないため、立ち入りはご遠慮ください」との注意書きを載せている。

鎌ヶ谷市 中沢城

鎌ヶ谷市内の城としてどの本にも必ずこの城の名前が出ているが、その存在の信ぴょう性には疑問を投げかける記述が少なくない。

「東葛の中世城郭」(千野原靖方著・崙書房出版)は「中沢城跡は道野辺八幡宮周辺から中沢字外和戸の舌状台地上に伝えられてきた。しかし、城跡が実在したか確証は得られず、今日まで伝承のみに支えられてきたというのが実情である。昭和五十五年(1980)二月には発掘調査も行なわれて、『中沢城跡発掘調査概報』(鎌ヶ谷市教育委員会)に成果が報告されているが、決して城郭跡と断定できるようなものではない。すなわち、発掘対象となった土塁・空堀跡は、城跡の遺構ではなく、近世の小金中野牧に関連する野馬除土手の跡と考えられるのである」と書いている。同書によると中沢城の存在は明治40年(1907)に校訂・刊行された「東国闘戦見聞私記」の記事によって広く知られるようになったと思われるが、この記事の信ぴょう性は低い。しかし、大正12年(1923)刊行の「千葉県東葛飾郡誌」にも中沢城についての記述があり、大正時代には中沢城跡がすでに伝承の中の存在となっていたことがわかるという。中沢城があったとすれば、道野辺の妙蓮寺や八幡宮のあたりだという。