松戸周辺の城跡を訪ねて(2)

柏市の城跡地図 土塁の上から増尾城副郭を望むの写真▲土塁の上から増尾城副郭を望む

柏市 増尾城

県立西部図書館や千葉西総合病院の前を走る県道51号線(市川柏線)を柏方面に向かい、東武アーバンパークライン(昔の東武野田線)を越えてさらに行くと、増尾城址総合公園(柏市)がある。この公園の一角に増尾城跡が保存されている。

城跡は主に主郭と副郭からなるが、その副郭の隅に柏市が立てた案内板がある。城の概要が分かりやすく書かれているので引用させて頂く。

「増尾城址公園の一角には、約500年前の戦国時代後半代の築造形態を残す中世城郭が所在します。

城跡の由来については、当時の資料が残されていない今、城主や築城の目的など詳しいことはわかりませんが、大正11年発刊の『土村誌(つちそんし)』には、土地ではこの山を『城山』と呼んでいたこと、同12年に編纂された『東葛飾郡誌』には、戦国時代、当地は小金領にあり、小金城(松戸市)を本拠とする高城氏の家臣平川若狭守(わかさのかみ)が城主であったと推測されています。

城跡は、西側から東側へつきだした小規模な舌状(ぜつじょう)の台地に立地し、南側眼下には手賀沼に注ぐ大津川の分流が流れ、北側から東側にかけてはゆるやかに下る谷とけわしい崖となり自然地形を取り込んでいます。台地郭(くるわ)面の標高は約20m、河川低地面は約9mで、高低差は11mあります。

 

 

 

 

 

 

増尾城副郭に立つ説明板の写真▲増尾城副郭に立つ説明板 増尾城主郭の写真▲増尾城主郭

郭の構造は、東西約130m、南北45~100mで東西に長い三角形状の縄張(なわばり)構成となり、台地東端の先端部に三角状の主郭と台地西側の方形の副郭が連続して並びます。それぞれの郭は、土塁、横堀(空堀)、切岸(崖)などの防御施設で取り囲まれ、虎口(こぐち=出入り口)が2ヶ所設けられています。郭内の土塁の高さは2・5~3mあります。主郭と副郭の北西辺の土塁がとぎれないこと、南西隅に大規模な張り出し櫓があるところが特徴とされます。

城跡眼下の河川は分水嶺(郡境)とされ、この南側一帯には、鎌倉・南北朝時代に『相馬御厨(そうまみくりや)』という伊勢神宮の荘園が置かれ、『相馬文書(もんしょ)』によると千葉氏庶流の相馬氏が代々土地を伝領したことが知られ、増尾字本郷には相馬氏の守護神とされる妙見堂跡や相馬氏の居館とされる幸谷城館跡などが点在します」

 

 

 

増尾城副郭部の横堀の写真▲増尾城副郭部の横堀 増尾城址公園入口の写真▲増尾城址公園入口(左側が城址)

城主とされる平川氏については、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)によると、増尾地区における平川姓旧家の存在とあいまって通説化されてきたが、確実な証拠史料はないという。

小金城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めの折に、浅野長吉(長政)の軍勢に包囲され、戦わずして明け渡されたが、この時に平川氏も小金城に籠城(ろうじょう)していた。

戦後、平川若狭守は同じ高城氏の家臣だった南相馬郡鷲谷(沼南町鷲野谷)の染谷二郎右衛門尉のもとに身を寄せたが、二人して旧主君の高城胤則に窮状を訴えたことに対する返信と思われる手紙が残されており、これが平川氏が高城氏の家臣であったとする唯一の史料だという。

 

 

 

 

増尾城現況測量図

この手紙の中で、高城胤則は両氏の窮状に同情し、百姓として帰農するか他家へ士官して妻子を養うことが肝要で、自分が再興叶った時には連絡次第こちらに参上するようにと書いている。しかし、平川若狭守は再仕官することなく、南相馬郡鷲谷で亡くなったと伝えられている。

 

柏市 幸谷城

松戸市にも幸谷城と呼ばれる城跡があるが、別の城である。

増尾城の南方500mの「狐山(きつねやま)」と呼ばれる字幸谷の台地上にある。増尾城と同じく県道51号線の沿線にあり、近くには柏市立土小学校と、土小学校発祥の地とされる萬福寺がある。萬福寺阿弥陀堂には県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。幸谷城跡の台地を挟んで反対側は谷になっており、小さな川が流れている。

 

幸谷城跡上がり口の写真▲幸谷城跡上がり口 土塁がわずかに残る幸谷城跡の写真▲土塁がわずかに残る幸谷城跡

城のある台地は私有地なので中に入ることはできないだろうと考えながら台地周辺をめぐると、柏市の「カシニワ制度」により、土地所有者の好意で、市民団体が整備清掃し、だれでも自由に遺跡内を散策できる、という趣旨の看板が立っていた。

同市のホームページによると「カシニワ制度」は平成22年11月15日から始まった制度で、柏市内で市民団体等が手入れを行いながら主体的に利用しているオープンスペース(樹林地や空き地等)、一般公開可能な個人の庭を「カシニワ=かしわの庭・地域の庭」と位置付け、みどりの保全・創出、人々の交流の増進、地域の魅力アップを図っていくことを目的としているという。

中に入ってみると、雑木林の中を散策できるようになっていた。
「東葛の中世城郭」には、方形の土塁・空堀跡の痕跡、櫓台跡や土倉跡があるとのことだったが、記者が確認できたのはわずかに残る土塁の跡だけだった。

城(館)の主は定かではないが、鎌倉時代は増尾村の領主は相馬氏であった。相馬氏が衰退した後は、文明17年(1485)のコウ城(幸城)の合戦で討ち死にした佐久間氏が城主だった可能性もある。戦国時代は増尾城主とされる平川氏の勢力下にあったかもしれない。