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- カテゴリ: 城跡探訪
- 2016年8月28日(日曜)09:00に公開
- 作者: 戸田 照朗
松戸周辺の城跡を訪ねて(6)
流山市 深井城
東武アーバンパークライン(東武野田線)運河駅から江戸川の間にある西深井の台地上に3か所の城跡が確認されている。
明治23年(1890)に開削された利根運河の南側の台地上、「不動坊」と「西深井散策の森」周辺からは、土塁・空堀跡の痕跡が見つかっているという(①)。「西深井散策の森」と道を挟んだ林の中にあるとのことだが、木が鬱蒼(うっそう)と茂っており、はっきりとは確認できなかった。今は墓地となっている「不動坊」には流山市が建てた「深井城跡」の簡単な説明板がある。いわく「戦国時代、小金城主高城氏の支城の一つがあった。城の範囲は、西深井及び東深井の一部を含む台地一帯と考えられる。不動坊(ふどうぼう)周辺には土塁・空堀跡がある。境内には、六地蔵などの石仏がある」。
もう1か所は、市立西深井小学校の北西一帯から、学校建設に伴う発掘調査で、土塁・空堀跡や土壙・溝などの遺構が広い範囲にわたって断続的に数か所から発見されたという(②)。土塁・空堀跡を見るために古谷自治会館の横の小道を入って、浄信寺跡に行ってみたが、私有地と思しき場所に入るわけにもいかず、ここもよくわからなかった。寺の跡にはまだ数多くの石造物が残されていた。
3か所目は、台地と谷津の境目で、利根運河に面した部分から土塁・空堀跡、櫓台的高所などの遺構が発見されているという(③)。南側の民家の脇に天満宮の小さな祠があり、その奥の竹林の中に土塁らしき、ふくらみが見えた。
この3か所に点在する遺構の数々が同一の城の一部で、台地全体が城域だったとすると、戦国時代に松戸、市川、流山、柏、鎌ヶ谷などにわたる広大な「小金領」を支配していた高城氏の居城・小金城(松戸市大谷口)を上回る規模になるという。あるいは、それぞれが独立した小さな城郭、または城館だったのかもしれない。3か所が同時に存在したのか、時代ごとに変遷したのかなど、詳しいことはわからない。城の主としては、高城氏の有力な家臣などが考えられるが、これも推測の域を出ない。
大正時代に書かれた『東葛飾郡誌』にも、新川村にあるが詳しくはわからない、という趣旨のことが書かれている。
※参考文献=『東葛の中世城郭』(千野原靖方・崙書房出版)