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- カテゴリ: 本よみ松よみ堂バックナンバー
- 2015年9月27日(日曜)09:00に公開
- 作者: 奥森 広治
今こそ読みたい35年前に記された戦争体験
おじいさんおばあさんの子どもの頃日本は戦争をした 中村 攻/宮城喜代美/石澤憲三 編
今から35年前に小学校高学年の担任教師が「家族(祖父母や父母)に戦争の体験を書いてもらう」という課題を出し、それらを母親たちが手書きの記録として残したものが本になった。36編の戦争体験記が「戦争と家族の暮らし」という国内から見た戦争と、「海外で戦争した人たち」という戦場や満州、朝鮮半島などから見た戦争という視点からまとめられている。また、最後に「戦争を考えるもう一つの視点」として、加害者としての日本について触れている。
思い出したくない苦しい思い出のためか、ごく簡単に書いている人、具体的に書いている人と様々だ。国内の体験は年齢的には当時まだ子どもだった人の体験が多い。海外で実際に戦った人はもちろん大人だが、もう故人になられたかもしれない。35年前でも既に高齢者。終戦当時子どもだった人は当時は働き盛りだった。
おそらくこの体験記は松戸の小学校で集められたものだと思う。子どもたちの体験には学童疎開、縁故疎開、東京大空襲の話が多い。松戸には地方からも人が集まるから、沖縄なのかな、と思わせる記述もあった。縁故疎開で福山に避難したのに、福山でも空襲に遭い、さらに原爆も投下された人の話も出てくる。究極の飢えの中で、お腹の中の子どもを薬を飲んで殺してしまおうかと考えたり、小さな子どもを抱えてせっかく逃げ込んだ防空壕の中で、子どもは泣くから殺せと言われたり、空襲で焼け死んだ人の死体を見ても何も感じず、まるで石ころをよけるように歩いたりと、戦争はやはり狂気なのである。
この体験談が集められた35年前を思い出してみる。私は中学生だった。2年生の時に、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻。クラスの男子が集まって、本当に戦争になるんじゃないかと心配したのを覚えている。モスクワ五輪を日本、アメリカをはじめ西側諸国がボイコット。お返しにと、4年後のロサンゼルス五輪をソ連をはじめとする東側諸国がボイコットした。2大会連続でオリンピックがまともに開かれないという異常事態。
当時のソ連は本当に怖かった。私が生まれる前には、キューバ危機でアメリカと核戦争の寸前まで行った国である。そして、あろうことか、領空侵犯したからといってミグ戦闘機が大韓航空機…つまり、満員の民間の旅客機をミサイルで撃ち落としたのである。
安保法案を強行採決した政府は中国の脅威を強調するが、当時のソ連の脅威は比べようがない。日本と中国は経済では密接な関係があるが、当時のソ連とは貿易関係もほとんどなく、なによりソ連国内の内情がほとんど分からないという不気味な国だった。
そして、国民世論も今よりずっと戦争に対して敏感だった。当時なら今回のような法案は出せなかったと思う。
最後に、6年間も従事し、最後の4年間は南方戦線にいたというおじいさんの、孫にあてた体験談を一部抜粋する。
「君は戦争とはどんなものと思いますか?
敵の弾丸が飛んでき、飛行機の爆撃を受け、あるいは船が沈められ、といった事だけが戦争ではないのです。たたかうのは敵という人間とだけではなく、蚊や毒虫と言った小さい生きものとも戦い、病気という目に見えないものとたたかい、食料がなくなれば飢えという強敵ともたたかわなければなりません。
私が行ってきた南方方面では実際に敵の弾丸で死んだ人よりも、飢えと病気で死んだ人の方がはるかに多いのです。(中略)
戦争のために苦しむのは、兵隊だけではありません。戦場となった土地の一般の人達も大変です。自分の土地を追われて安全なところへ逃げていかねばなりません。田や畑を作る事もできず、従って食物もなくなり、老人や子供がだいぶ死んだという話です。自分達に関係のない戦争のために苦しみ、死んでゆく人達はどんなに戦争を恨み、戦争を起こした人達を憎んだ事でしょう。
今の日本はすごく平和ですね。食べ物もありあまるほどあります。これが一度戦争になると、食べ物も着る物も、たちまち無くなってしまいます。やがて君たちが大きくなり、大人になった時、絶対戦争など起こさないよう活躍して下さいね。戦争のぎせいになるのは、私達だけでたくさんです。戦争は誰のことも幸せにしてくれません。
みんなで、みんなで戦争を憎みましょう。」
太平洋戦争で亡くなった日本人は310万人、中国、東南アジアの人は2000万人余が犠牲になったという(正確な数字は現在も不明)。