松戸周辺の城跡を訪ねて(4)

 

松ヶ崎城の構造図

流山市 前ヶ崎城

坂川の源流ともいえる富士川は、幸田の台地の先で坂川と合流する。このあたりの富士川・坂川の流れは、川筋がそのまま松戸市・流山市の境界線となっている。

 

 

 

 

前ヶ崎城址公園入口の写真▲前ヶ崎城址公園入口 主郭部分の広場の写真▲主郭部分の広場

富士川と坂川の合流点付近には流山運転免許センターがあるが、「運転免許センター」交差点のところ、同センター隣の台地が前ヶ崎城跡で、主郭(本丸)部分のみが前ヶ崎城址公園として整備されている。主郭部は広場となっており、土塁跡、空堀跡が残されている。土塁の上に権現様の祠(ほこら)が祀(まつ)られていた。

 

 

 

 

 

 

主郭部分の土塁跡の写真▲主郭部分の土塁跡 土塁の上にある権現様の祠の写真▲土塁の上にある権現様の祠

入口には流山市教育委員会が立てた案内板がある。以下に説明を引用する。

「前ヶ崎城は16世紀中葉から1590(天正18)年頃まで、松戸市小金城を本拠とする高城氏の支城として機能したと考えられます。

西・北・東側の三方を坂川とその支谷に囲まれた、標高16mの細長い台地上に立地し、水田面とは11mの比高があります。現在地から南160mと350mの二箇所に、かつて堀切りが存在したといわれており、このことから3つの郭を直線状に配置した城と想定されます。付近には刑部郭・追手橋・馬場といった地名も伝承されていますが、城の施設と直接関連するかは不明です。

 

 

 

 

 

主郭部分のある台地の写真▲主郭部分のある台地 空堀跡の写真▲空堀跡

公園として整備した範囲は城の中心となる主郭の部分で、西側は過去の道路建設によって失われていますが、東・南側には高さ3m~4mの土塁が、東側の一部と南側には深さ約3mの空堀が見られます。また、南サブエントランスは以前から土塁が途切れており、この部分を郭の出入口である虎口に、その西側の最も高い土塁を櫓跡とする考えもありますが、郭の構造や建物配置は明らかになっていません」。

城主については、『東葛の中世城郭』(千野原靖方・崙書房出版)に、同地付近に住む花野井家、あるいは刑部郭の地名から高城氏の属将・田島刑部少輔ではないか、との説が紹介されているが、確証はない、という。

 

 

 

 

 

 

 

 

流山市 名都借城

曹洞宗長福山広寿寺本堂の写真▲曹洞宗長福山広寿寺本堂 曹洞宗長福山広寿寺山門の写真▲曹洞宗長福山広寿寺山門 名都借城跡のある台地の写真▲名都借城跡のある台地

前ヶ崎城跡の南東、標高20mほどの舌状台地上に名都借城跡がある。

道路を国道6号線方向に南下すると左手に流山市立東部中学校の入口があり、この中学のある台地と谷を挟んで反対側の台地が城跡になる。字でいうと大井戸根、城山といわれる地域だ。城山台地の先端部が本丸だと推定される、という。

大井戸根には、現在、曹洞宗長福山広寿寺がある。戦国時代に高城氏が開基したと伝えられ、同寺の観音菩薩坐像は流山市指定有形文化財となっている。

城主は不明だが、天文7年(1538)10月の国府台合戦までは小弓公方(おゆみくぼう)足利義明方の城で、この合戦での義明の敗死を経て、高城氏の属城になったと考えられるという。

※参考文献=『東葛の中世城郭』(千野原靖方・崙書房出版)

 

松ヶ崎城周辺図